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夏の扉

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 稲村のピアノはいつのまにか、もうやんでいた。
 ひとりの部屋に、鳴海は帰ってきていた。いつもの、ひとりの部屋に。
 ベッドの上に、スケッチブックが閉じてぽつんと置かれていた。
 まるで、忘れ物のように。


   三七、氷

 黄昏の時代に黄昏をながめる。
 怜は旧市街中心、大通公園のベンチで群れる鳩をぼんやりと数えながら、稜線に沈んでいく夕日をながめていた。背後のテレビ塔はもう十数年前から老朽化が激しく、塔そのものだけでなく、周囲百メートルの立ち入りが制限されていた。修理をしようというのでもなく、ただやがて海に沈むのをまかせるだけ。怜は捨てられた風景に背を向けて、古ぼけたベンチに腰を下ろして、ワゴンが売るトウモロコシをかじっていた。
捨てられることが決まった街は、引越しを待つ部屋とどこか似ているかもしれない。しかも、それは不精者の部屋だ。どうせ部屋を捨てるのだから、もう掃除する必要もない、床や窓を磨く必要もない。瞬く蛍光灯を交換しようと思う者もいない。かつては照り映えるほどに磨き上げられていたであろう地下街の床も、好事家が化石を探したかもしれない大理石の壁も、すっかりくすみ、汚れていた。かろうじて通電しているだけの照明は青白く、場所全体が陰鬱な声を発する地下街がつらかった。だから怜は、地上に出たのだ。
 鳩の目はなぜこれほど無表情でいて凶暴なのだろうか。平和の象徴とは考えた人間のセンスを疑いたくなる。もともと鳥類の目は恐ろしく冷徹で、表情に乏しい。群れる鳩にまじって、すぐそばにカモメが数羽たたずんでいるのが面白い。かじりかけのトウモロコシを数粒、指ではじくと鳥たちが集まってくる。そんなに飢えているのか、怜にはとても彼らが飢餓に苦しんでいるようには見えなかった。
 午後、遅くなってから怜ははちみつをかけたシリアルをとり、自宅を出て地下鉄に乗り、かつての職場を訪れた。地図が欲しかったからだ。
 海を見に行くには地図がいる。すくなくとも三ヶ月以内に作成された地図が。海岸線は猫の目のようにその形を変えていく。一週間前まで通ることができた道路がもう崩れて使い物にならなくなっている、そんなことは日常茶飯事だ。だから、地図がいるのだ。
 怜が所属している環境保健局では、調査員向けに衛星写真から起こした精密な地図が配られる。端末がないと読み込めないようなデジタルなものではなく、昔ながらの紙媒体で。衝撃に強く、電力を消費しない。理想のメディアが、実は紙だ。破れてもまた刷ればいい。手軽で、ローコスト。だから環境調査員はみな、紙の地図を携帯していた。そしてもうひとつの利点は、誰でも安易に手に入れることができるということ。
 幾重にも折りたたんで、地図はポケットに突っ込んだ。そし てそそくさと職場を出てきた。ひさしぶりに顔を見せたさえない同僚を、歓迎の言葉が待っているはずもない。一言二言、交わす言葉は最低限だ。発狂した怜を羽交い締めにして転がった同僚の顔は、あのときより土気色が濃かった。では自分は。ひさしく鏡をのぞいていない怜は、自分の顔を知らない。こと、<施設>に通いだしてから、怜は鏡を見ていない。毛づくろいに洗面時に立っても、顔が見えない。怜の目は自分自身を確認する作業を拒んでいた。
 鳩が怜の足元にぎっしり群がっている。羽の模様、体系、歩き方。みな同じように見えるが、それぞれが微妙にちがう。怜はもうトウモロコシをかじるのをやめていた。別段空腹を感じていたわけではないのだ。三分の一ほどを残して、怜は足元にトウモロコシをそのまま落とした。環境調査員のすることじゃない、食糧事情は日に日に悪化しているというのに。けれどそれを声高に叫ぶ人々を怜は嫌悪していた。真摯な気持ちから出た行動なのはわかる。しかし彼らが集まると、そこに偽善の文字が見え隠れする。いまさらなにをしても無駄だ、そんな諦観。気づかないふりをしているのか、それとも本当に気づいていないのか。さもなければ、自分たちの行動が世界を変えていけるとでも思っているのか。だったら一度海を見に行くといい。海に飲まれていく街を、森を、畑を。あるいは原始、生命を育て護っていた頃のように、海はもういちど、人をその懐の奥にしまいこみ、閉じ込めて浄化しようとでもしているのかもしれない。暖かく、慈愛に満ちた海水に全身を浸して、やがて脆弱な身体は空気に触れることもできなくなる。
 怜のまわりに寄った鳩はもう、数える気がうせるほどになった。もうトウモロコシがどこにあるのかもわからない。何かに似ていると思ったが、答えを出すのはやめた。
 ポケットから出した地図を夕日にさらす。茜色のフィルターだ。怜は海岸線を探す。北へ、北へ。
 碁盤の目のように街路が描かれているのは、市街地。北へ行けば網の目は粗くなり、唐突に途切れる道路がめだちはじめる。<機構>が立ち入りを規制している地域は、道路上にゲートのしるし。ゲートに人を配置しているような場所は少なく、道路を使わなければたやすく規制地域に立ち入ることができる。もっとも、沼地や荒れ放題の草地を徒歩で突破できる自信があればの話だ。それだって、地雷が埋設されているわけでもないから、その気になりさえすれば、誰でも海を見にいける。渚を歩くことだってできる。でも怜は徒歩で海を見に行くつもりはまったくない。そんな苦労をして見るものじゃない、気軽に、前世紀の人たちが夏休みにしていたように、見に行きたかった。
 地図に見る海岸線は予想していたより入り組んではいなかった。等高線のとおりに侵食が進んだのか、海はそこにあるのがとうぜんといった風情でのっぺりと描かれている。しかも、近い。職場の屋上から見えた水平線は、間違いなく本物だ。
 いったん海にたどりついた怜は、すぐにとってかえし、港湾道路を探す。LRTの終点はあんがいすぐに見つかった。電停の名前もひとつひとつ読みとることができる。防風林もちゃんと描かれていた。ポンプ施設、草地、そして<施設>。
 人差し指がそこで止まる。
 ぽつんとそこに、だだっ広い草地の真ん中に、<施設>は建っている。名前もなく、ただ網掛けされた四角い表示で。コの字に配置された建物の配置はそのままだ。こんな形で<施設>と接するのははじめてだ。あの場所が実在していることを、怜は確認した。実在の場所なのだ、あそこは。
 海が近い。
 地図上では、もう指一本分ですぐに海岸線だった。
 鉛色の水平線しか知らない自分と、海を見たことがないという彼女、鳴海。鳴る、海、潮騒、打ち寄せる波、鳴海。彼女の名前だ。なるみ、という音を、字であらわすとおよそ彼女のイメージと遠くなる。怜はいつ彼女の名を、「鳴海」と書くのか知ったのだろう。稲村から聞いたのか、老婦人が語ったのか。
 ちがう。
 彼女の名前を、怜はきちんと「見て」いた。この地図と同じ、紙の上で。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介