夏の扉
明日香はなにも言わずにスケッチブックを手にとり、そして開いた。最初のページを。最初のページのほかはなにも描いていないから、記念すべき入り口は、明日香の憂いを含んだ瞳が飾ることになった。
「これが、わたし……」
声にならないつぶやき、額にはらりと前髪が垂れ、彼女の右目が隠れた。鳴海はバウムテストを終えたばかりの患者のように、こころもち緊張していた。だから、声にならない明日香のつぶやきを、鳴海は聞き逃さなかった。
鏡より、もちろん写真より、ある意味でリアル。絵には作者の意識が介在しているから。いったん描き手というフィルターをとおし、イメージを再構築するから。そのもののリアルな姿なら写真にかなわない。だが絵はちがう。描かれた人間の表裏を画用紙に落とし、いろいろな要素がちりばめられるのだ。ある意味残酷で、ある意味、暖かい。
「ごめん、気に入らなかった?」
「鳴海さんは、わたしに気に入られようとして描いたりしないでしょ。いいよ、これ。そうか、こいつが、西明日香なのね。面白いわ」
「面白い?」
「わたし、いつもこんな、ひとを莫迦にしたような顔してる?」
軽く顎をあげ、見下ろすような視線。けれど寂しげ。そうだ、諦め。行ってしまう誰かを見送っている目だ。
「そう見える?」
「さあ」
明日香は両手にスケッチブックを持ったまま、手鏡をのぞきこんでいるように、画用紙から目をはなさない。そう、これから化粧でもはじめるかのように。
「言ってみただけ。そっか、わたしはこんな顔か」
「似てるかどうか」
「似てるんじゃない? そう思うよ。かわいいかどうかは別にしてもね。きっとわたしはこんな顔をしてるんじゃないかな。嫌だな、こんな顔でここをうろついてるのか」
ぞんざいな口調は、きっと鳴海の絵を見てしまったからだ。たぶん、そうだ。誰でも幾重にも着込んだ衣装をはぎとられた自分の姿を見るのは、怖い。スケッチブックの明日香の表情に、実は鳴海は見覚えがない。まくしたてるように「昔話」を繰り出す明日香の表情を、鳴海の指はかってに描き出していた。いっさいの虚飾は、ない。
「そういえば、どうして色鉛筆を出したのに、色をつけてくれなかったの?」
顔をあげず、明日香。いつもの強気でつっけんどんな彼女はいなかった。絵のなかの彼女とベッドの上の彼女がゆっくりと等号で結ばれはじめたとき、スケッチブックは本当に鏡になる。
「時間がかかるから」
そう答えたものの、自分でも二四色入りの色鉛筆をろくに使わず、鉛筆でかきあげてしまったことがわからなかった。濃淡も陰影もすべて、モノトーン。
「つぎは、色をつけてほしい」
ともすれば眠りに落ちる寸前のような、さもなければダウン系のドラッグに酩酊しているような目を鳴海に向けた明日香には、はっきりとわかる憂いが漂っていた。
「また、モデルになってくれるの?」
「鳴海さんさえよければね。……鳴海さんがここにいるあいだは」
言ったあと、明日香はひどく寂しげに笑った。その微笑の意味がわからず、鳴海は問う。目で。
「本当は、昔話をするために来たんじゃなかったのよ」
スケッチブックを閉じ、傍らに置いて明日香は指を組んだ。小さな、手。
「昼間、あの環境調査員はわたしたちに訊いたよね、『戻りたくはないのか』って。わたしは戻れないって思った。戻るところなんてないし、わたしの居場所はここだって思うから。だけど、鳴海さん」
言葉をいったん切り、明日香はその細い身体いっぱいに深呼吸をした。勢いをつけ、つぎの言葉を用意する。
「鳴海さんはいつか、ここからいなくなるような気がする。戻っていくような気がする。わたしが言うのもなんだけど、ここはもう<街>とは別な世界よ。離れ小島、絶海の孤島ね。進化の過程からとりのこされた、奇跡の島よ。そこでは動物たちは独自の進化を遂げていくわ。どんな形になっていくのかを知っているのは神様だけ。神様なんかに会ったことはないけどね。きっと底意地の悪い奴なのよ、神様ってね。やつはここの人間を、もう二度と<街>に戻れない身体につくりかえちゃった。外と出入りがないってことは、もう種としては末期的な状況よ。近親交配って言葉知っている? 遺伝子が弱体化して、結局は滅びるの。血が濃くなるのよ。でも、少しでも外から誰かが来れば別。血が薄まるからね。外からの血が強ければ、あおりを食らって滅んじゃうかもしれないけど、停滞していた進化がまたはじまるかもしれない」
明日香は立ち上がった。見下ろす彼女は顎をひいて、まっすぐに鳴海を向いている。明日香が誰のことを話しているのか、鳴海にはわかっていた。
「鳴海さん、わたしの代わりに外を見てきてよ。見てきて、絵を描いてよ。そしてその絵をわたしに見せて。わたしはもう外には行けないから、だから、代わりにわたしの目になって。きっとわたしが外に出たら、発狂しちゃうわ。でも鳴海さんが描いた絵なら、わたし、平気だと思う。見られると思う」
まっすぐに鳴海の瞳をとらえ、明日香は歩み寄る。歩み寄り、小さな手を鳴海の肩にのせた。
「わたしも、海を見てみたい。鳴海さんを通してね。もしできるんなら、……わたしも環境調査員をガイドにして、外を歩いてみたかった」
端整な顔立ち、すらりととおった鼻梁、長い睫毛、細い首、明日香。
「言ってなかったっけ、わたし、学生のころは環境調査員になりたかったのよ」
そう場違いなくらい明るく言い放った明日香の顔は、いびつな笑みを固まらせていた。
「行っといでよ。でもまた戻ってきてね、一回はね。スケッチブック、持って」
「わたしは行かないわ」
「きっと、行くわ。そう思う。鳴海さんはここで目を閉じているんじゃなくて、開いた目でいろいろなものを見ることができるひとだもの。知ってた? わたしも真琴も、目は閉じているのよ。何も見たくないから、ここにいるんだもの」
「わたしも、いっしょよ」
「ちがう。鳴海さんは、戻ることができると思う。ううん、鳴海さんは、外に忘れ物をしているんだよ、きっとね。それを取りに行かなくちゃ」
「忘れ物?」
肩に置かれた明日香の手は暖かかった。そのぬくもりが絡みつき、沁みこんでくる。不意に明日香がずっと遠くに感じられる。そばにいるのに、実感がない。遠い。ドアの向こうに、彼女は立っている。扉はもう、開いている。でも鳴海はわからない、自分がドアのその向こうにいるのかどうかが。
「行ってきてよ。……その前に、わたしの似顔絵、色をつけて描いてよね」
明日香はおどけた顔でつけくわえ、鳴海は一瞬ためらったあと、うなずいた。うなずいた鳴海にもういちど笑顔を送って、明日香はすっと手を引いた。
「絵葉書、待ってる」
それだけ言うと、明日香は片手を上げてさようならの合図。おやすみなのか、また明日なのか。
明日香はふわりと空気を押しのけて、廊下へ出て行ってしまった。そのとき鳴海は明日香の匂いをかいだ。明日の、香りを。
酸性雨がどんな匂いなのか、鳴海はわからない。けれど、もし明日香の匂いが雨の匂いなら、雨の夜に生まれた彼女の匂いなら、いつまでも降っていてもきっと鳴海は気にならないと思った。そんな雨ならずっとあたっていてもいい。