小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

夏の扉

INDEX|62ページ/125ページ|

次のページ前のページ
 

 明日香はポーズに影響しない程度に身をのりだし、言う。きっと寂しいのだ、彼女も。唐突にそう思った。
「壁画」
「壁画?」
「そう、壁画。洞窟の壁にさ、古代人が描き残した壁画。あれが好きなの。考えても見てよ、絵を描く動物なんて、人間だけよ。鳴海さんを前にしてこんな話も変だけど」
「人間も、動物なんだっけ」
「そうよ。動物動物。絵を描いたりする動物。変り種よね。動物って、環境に適応するために毛が生えてきたり、首が伸びたりちぢんだり、海に潜ったり空を飛んだりするじゃない。人間は環境を自分たちに適応させる変な動物ね。だからこんなになっちゃったんだろうけど。……それは関係ないね。壁画、壁画。
 よっぽど暇人だったのかな、昔ってさ、いまと違って毎日食ってくだけで精一杯のはずじゃない、なのに、わざわざ岩の壁に絵を描こうなんて、よっぽどの変人かよっぽどの暇人ね。わたし、そういうの想像しながら資料集読むのが好きだったの」
 おぼろげに鳴海のなかの明日香が画用紙のなかで形をととのえていく。これまでの斜にかまえた皮肉屋の女の子が、話好きのさびしがり屋にクロス・フェイド。
「絵を描くのって、特殊な技術よね。わたしはまったくだめだから、すごいと思う」
「そうかな」
「そう。絶対そう。……ここがさあ、もし古代の洞窟だったら、鳴海さんは壁画描きの変わり者ってことになるのかな」
 そう言って、明日香は笑った。いたずらっぽく。
「でしょうね。わたしは、変わり者だから」
「真琴みたいなのもきっといるわ。一族のなかで、いつも歌を歌ったり、へんてこな楽器をつくって四六時中やかましいタイプね」
 細い首、ゆったりとしたスウェットの襟、洗いざらしのつやのない髪。鳴海のなかの明日香。
「ごめんね、べらべらしゃべって。きっとあの環境調査員が伝染ったんだわ」
 怜。ほんの一瞬、絶対に明日香にはわからないほどの一瞬、鳴海の指は止まる。砂浜で自分を起こしてくれた、彼。とまどいがちにライターを擦った彼。街の、人間。もうここの人間が戻れない場所からやってきた、彼。
「壁画の話ね、べつに鳴海さんにひっかけて話したわけじゃないのよ。……ここに来る前、わたしは別な病院にいたの。外来じゃなくて、入院ね。その頃のわたしは、自分でいうのもなんだけどかなりやばくて、ドアに鍵がかかる部屋にぶちこまれてた。なかからじゃないのよ、外からしか鍵のかからない部屋ね。閉鎖病棟ってやつ。鳴海さんみたいなタイプだと、一生縁がないんだろうけど。
そこにいたころの話なんだけど、変わったひとがいたの。もちろん直接は知らないし面識もないんだけど、その病院では有名人だった。どんなひとかって言うとね、そのひとは、自分を絵描きだと思ってるのね。絵描き。画家よ。病室はさしずめアトリエね。そこでそのひとはもう、ずっと絵を描き続けているわけ。閉鎖病棟ってね、病院にもよるんだろうけど、わたしがいたところは、WHOも真っ青の、まあ更生機関みたいなところでさ、私物の持ち込みがほとんどできないわけ、病室にね。本だとかはいいんだけど、ラジオはだめ。わたしは暇を持て余していた、わけでもなかったかな、ずっとわけのわかんない薬飲まされてて、一日中ぼうってしてたから。でもその絵描きさんはちがうの。もう四六時中絵を描き続けてるわけ。そう、もちろん画材なんて、自殺の道具になっちゃうから持ち込み禁止よ。だから彼は、三十歳くらいの男なんだけど、クレヨンみたいな、なんていうのかな、四角い画材があるでしょ、パステル? それを医者にもらってね、ずっと絵を描き続けているの。どこにだと思う? そう、壁に」
明日香のショートヘアはつやはないけれどやわらかい。一本一本、ハイライトを入れていく。額はそれほど広くはないが、狭くもない。それにしても肌のきめが細かい。
「壁にね、絵を描くの。子供みたいにね。ずううっと、一日中。面会のひとも来なかったみたい。わたしのとこにも来なかったけどもね。で、壁が絵で埋め尽くされると、暴れるわけ。そうだよね、もう描けないんだから。描く場所がなくなっちゃうんだから。そりゃもうすごい暴れかたで、わたし、入院したてのころ、怖くて寝られなかったもの。うるさいってレベルじゃないのね、もう。で、部屋を変えるわけ。新しいスケッチブックよね。すると静かになる。わたしもあおりを食らって部屋を変えさせられたわ。で、廊下からそいつがいた部屋をチラッと見たの。絵で埋め尽くされた壁もね。
 すごかった。本当に、絵。絵。絵。壁画よ。しかも、なにを描いているんだかわかんないくらい、びっしりね。気持ち悪かった。薬が効いててわたし、そのころはのべつまくなしぼうぅっとしてたんだけど、はっきり覚えてる。怖い絵だった。それこそ、古代人のわけのわからない壁画ね。あれは」
 イメージの固定化。出力はまもなく終わる。しゃべりつづける明日香が、いちども描いている途中のスケッチを見たがらないことが、ありがたかった。イメージが固定化しないうちに他人の意思が介在すると、結晶化が失敗する。そう、結晶だ。やはり明日香はいいモデルだ。
「鳴海さんが絵を描くのが好きだって、わたし、真琴から聞いたわけじゃないわ。真琴は知らないかもしれない。知ってるのかな。……わたしは有田さんから聞いたのよ」
 老婦人。いつもひとり、マグカップを片手に談話室の椅子に座っている、彼女。そういうば、老婦人の部屋はどこなのだろう。
「有田さんが」
「いつか、言ってた。鳴海さんが絵を描くのが好きだってことをね。有田さんの似顔絵でも描いてあげたの?」
「そんなことしないわ」
「そうか。だよね、鳴海さん、有田さんとはあんまりしゃべらないもんね。じゃあ何で知ってたんだろう」
「……ここに来たころ、わたし、まだ絵を描けてた。描くっていっても、落書きだけど。スケッチブックに中庭だとか、窓とか、そんなのばっかり描いてた。そうしないと、見えちゃうから」
「終わりが?」
「そう。描いているあいだは、けっこう何も考えてないから、楽になれるから。でも、そんな気持ちで描いても、だめだった。だから、やめてた」
 まもなく明日香が画用紙に誕生する。けっして質のいいとはいえない画用紙と、しまいこんだままだった色鉛筆で。新しい世界への着陸は、うまくいっただろうか。似ているのか似ていないのか、わからない。
「いいじゃない、描けば。さっきからの鳴海さん、んん、ちょっとちがうかもしれないけど、なにも見えていない感じだった。見ていないんじゃなくて、余計なものを見ていないって。そういう感じ。いつもとぜんぜんちがう。怖いくらい」
 画用紙のなかの明日香は、おしゃべりな少女ではなかった。憂いを含んでこちらを向き、少し寂しげで悲しい顔をしていた。口元の微笑、ショートヘア、細い首。
「できたよ」
 そっと、鳴海はスケッチブックを閉じる。ここで、いったん鳴海の世界は終わらなければならない。一度閉じて、そして、つぎには鳴海ではない誰かがその扉を開く。いまは、明日香。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介