夏の扉
「わたしを描いてよ。このさい。見てみたいな、鳴海さんがどんな風にわたしを見ているのか、知りたくなった」
知りたくなった。
「明日香ちゃんを、描くの?」
「しばらくわたし、自分の顔なんて見てないから。顔を洗うときだって、わたしは鏡を見ないわ。だから、鳴海さんの目を通して、自分の顔を見てみたくなったの。あの環境調査員のことを『街の人間の顔だ』なんて言っちゃったけど、本当言うとね、わたし、街の人間の顔がどんな顔なのか、わたしの顔とどう違うのかなんて、わからない。だから、知りたくなったよ、自分の顔が。
どう? モデルに不足はないと思うけどな。描いてよ」
明日香のセリフが終わると、稲村のピアノが再開した。最初は右手で旋律を。エチュードだ。次に左手を。つたないリズム、きっと練習を始めたばかりの曲。
「似顔絵なんて、わたし、描いたことがない」
「じゃあ、記念すべき第一号ね。いくら時間がかかっても、わたしは大丈夫。理想のモデルになってあげる。描いて」
笑うと明日香の目は細く、やさしい顔になる。鳴海は思う。彼女のどんな表情を抽出すればいいのだろうか。
「いいのね? 怒らないでよ」
自分の目は、いまも見えているのだろうか。「終わり」ばかりが「見えて」きた自分の目は、はたしてすぐそばに座っている明日香をとらえているのだろうか。そして、彼女を描くことができるのだろうか。そんな躊躇も、いつもとちがう明日香の声に、かき消される。
「決まりね。よろしく。かわいく描いてね」
鳴海はライティングデスクの袖の、いちばん下の引き出しから二四色セットの色鉛筆を取り出した。ずっと昔に兄がくれた、色鉛筆。けれど芯はみなとがっていて、長さもそろっていた。はじめて、描く。はじめて。色鉛筆の下にしまってあったまっさらのスケッチブックを広げる。さらりとした画用紙、どちらが表だったっけ。鳴海は何も言わず、まずはやわらかめの黒の筆記用鉛筆を握る。そして、芯は画用紙の上空をしばし滞空する。いつも迷う、最初の線。そこから世界ははじまるのだ、うかつな線は引けない。白い「無」から、鳴海はこれから世界を創造するのだ。大仕事になる。久しぶりの緊張だったが、苦痛を感じない自分に、鳴海は驚く。顔をあげ、ベッドに座っている明日香をもういちど確認。大丈夫、彼女はそこにいる。
「じゃあ、はじめるね」
「期待してる」
明日香はすました顔でベッドに腰かけている。いつもと同じ、ちょっとだけあごを持ち上げたあの表情で。
鳴海は大きく息を吸う。耳には稲村の旋律を感じながら。静かな夜、彼のピアノはさらに夜に静寂を呼んだ。
そして、滞空を続けていた鉛筆が、じょじょに高度を下げていく。着陸だ、新しい世界に。
鳴海は一本目の線を、画用紙に描く。そうだ、一本の線はその時点ですでに絵になっているのだ。
三六、2B
画用紙の上をすべる鉛筆。描きながら思う。この音を聞いていると、落ち着く。稲村のピアノもいいけれど、鳴海は楽器ができなかったから、鉛筆を画用紙に滑らせて軽やかな音を奏でるこの作業は、彼女にとっては演奏だった。ひとつの風景を、世界を描きつむぎだす、ひどく神経をすり減らす演奏だ。音楽家は一曲を演奏するとき、驚くほどの体力を費やすのだと聞くが、それと似ているかもしれない。弛緩と緊張が、ここでは同居している。
まずは輪郭から。
明日香の顔は形のととのった卵。歪みやいびつさがなく、こうして描いてみると彼女はずいぶん美形なのだ。きっと。
まったくの我流だから、きっとセオリーを無視した描き方なのかもしれない。でもそれでいい。鳴海は人間を描くとき、かならず最初に目を入れる。もっとも、これまで人間を描いたことなど数えるほどしかなかったのだけれど。
モデルはたしかに優秀だ。身じろぎひとつせず、じっとベッドに腰かけてポーズを崩さない。けれど鳴海は思う。ポートレイトを描いて欲しいと頼まれても、モデルは不動である必要などないのだ。なぜなら絵を描くという行為は、写真撮影とはちがうからだ。イメージはすでに鳴海のまぶたの裏に露光している。それをいくつもの因子をつなげ、パズルを組み立てる要領で画用紙に出力していくだけだ。あるものをそのままは描かない。描き手の目をとおし、指を介して描かれる世界は、もう実在のそれではないのだ。
下書きにはできるだけやわらかい芯がいい。濃淡がつけやすく、あたかも画用紙がクッションのように感じられるくらい、指先と鉛筆が一体になるような感覚が得られればなおいい。だからといって、画材に対するこだわりもない。自分の思うとおりに描くことができればそれでいい。
明日香はあまり瞬きをしない。それも彼女がモデルをつとめてはじめて気がついたことだった。まつげが長いことも、はじめて知った。気負いも照れもなく、ベッドにただ座って、鳴海がイメージを出力し終えるのを待ってくれる。理想のモデルだ。鳴海は思い出す。幼い頃に絵本を読んで聞かせてくれた祖母のことを。祖母は鳴海にとって、いちばん身近なモデルだった。陽だまりのソファで、あるいは冬の日、午睡を楽しむ祖母の表情をこっそり写しとるのが好きだった。一本一本刻まれたしわは、月並みだが祖母がすごした時間、年輪のように思えたし、その溝の一本一本に無償の優しさが刻み込まれていた。
不意に胸の奥に、熱く懐かしいものがこみ上げる。まだなにも知らなかったあの日。もう取り戻せないあの日々。なにも見えていなかった、幼い日々を。
明日香がそっと重心を変えたらしい、ベッドがきしんだ。遠くに響く稲村のピアノはいまだつづいていて、エチュードはしだいに曲としての体裁を整えつつある。鍵盤に指を触れ、ハンマーが弦を叩きはじめて音が出る、その行程すら聴こえるような、静かな夜。はじめて明日香とすごす夜だ。もう何年も暮らしてきたのに、いまが、はじめてだ。しかもわたしは彼女をモデルに絵を描いている。奇妙だった。不思議だった。意外だった。なにかがゆっくりと回っていく、そんな予感があった。
「ねえ」
稲村のピアノにのせて、明日香の声はヴィオラのような響き。楽器は弾けないが、父が音楽好きで、彼は虹色の光を放つディスクをプレイヤにかけ、娘を誘っては大昔の音楽を聴いた。ああ、また扉が開いていく。
「どうしたの?」
「わたしね、高等課程にいたころは、もちろん理科も好きだったけれど、歴史も好きだったのよ」
話ながらも、鳴海の指はとまらない。筆で描いたような眉毛、桜色の唇、すらりとした鼻梁。
「ほら、資料集ってあるじゃない、写真とか満載の。それをねぇ、授業中にこっそり関係のないページを読んだりしてね、考査と関係ないことばっかり覚えて」
「うん」
「鳴海さんは、どう。歴史は興味がある?」
話ながらも表情を、ポーズを崩さないのが明日香らしい。
「あんまり。過ぎたことには興味がなかったから」
「かっこいいね、そういうの」
「そうかな」
「でね、わたし、近代史とか中世とか、世界がめちゃくちゃになっていく現代史とかはどうでもよくってさ、古代史のページばっかり読んでたの。わかる?」
「わかる、なんとなく」
「そんなかでも、わたしがいちばん好きなのは、なんだと思う?」