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夏の扉

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 鳴海が言うと明日香はすらりとした脚を組み、また小首をかしげた。その動作を、鳴海はしだいにかわいらしいと感じるようになった。不思議だ、そんな感想を抱いたのははじめてだ。
「ちゃんとわたしの質問に答えてないよね。……鳴海さんらしいけど。らしいってどういうことなのかな、よくわかんないけど。わたしもいっしょ。気がついたらここにいた。気がついたら真琴になつかれてた。ずっとわたしはひとりでいたのに、気がついたらね、ほんとうに気がついたら、真琴がわたしのあとをくっついて歩くようになってたな。一度、訊いてみたのね、『どうしてわたしにかまうの』って。そうしたら、真琴がなんて答えたと思う?」
 白熱灯をの明かりを浴びた明日香は、いつもよりずっと彫りが深く、つるりとした肌がどこか作り物めいて見える。何を言っても表情をほとんど変えず、口許を軽くゆがめるだけ。すぐそばにいるのに、彼女との距離感がわからない、はかれない。けれど、以前よりは近くにいるような気がする。
「『寂しそうだったから』って。あの顔でね、そう、いつものこんな、上目遣いでわたしに言うのよ。びっくりしちゃった」
 明日香は真琴の上目遣いを真似して見せたが、薄暗い明かりだけの鳴海の部屋では、斜にかまえた彼女の表情が、いっそう迫力を増しただけだった。それが可笑しくて、鳴海はまた笑った。
「おかしいでしょ。他人にはじめて言われたわ、『寂しそうにしてる』なんてね。考えてみればそうだったのかもしれないけどね。でもわたしはひとりで寂しいと思ったことなんかなかった。気象通報を聴いていても、ぼんやり談話室で時間をつぶしていても、寂しいなんて思ったことはないわ。けれど、きっと寂しそうな顔をしてたんだろうね。真琴はあれでけっこう鋭いから。ちょっとおしゃべりすぎだけどね。あの環境調査員が、わたしが大学にいたことを知ってたのだって、真琴がばらしたのよ。それはいいんだけどさ」
 淡々と、抑揚に欠けた独白が続いた。モノローグだ、まさしく、明日香のモノローグだった。なぜいま彼女が鳴海にそんな話を聞かせるのかは見当もつかなかったが、だまって聞いた。
「ほんと、気がついたら、ここにいたなぁ」
 首のうしろで指を組み、明日香は遠い目をした。彼女のそんな顔は見たことがなかった。
「明日香ちゃんは、戻ろうとは思わないの?」
「戻るって、どこへ」
「どこへって、大学へ」
「昼間の話の続きかな。だったら、もう答えは言ったよね、わたしは戻れない。ここがわたしの居場所なんだって、そう思っているから」
 そう言った彼女の顔が、ひどくはかなく見え、鳴海の耳に「戻れない」というセリフがいつまでも残響する。戻れない。そう、自分も戻れない。
「鳴海さんは」
「わたしも、戻れない。戻る場所なんかないし」
「お兄さんがいるんでしょ」
「お兄ちゃんは、<機構>の人間だから」
「パイロットやっているんだっけ」
 だまってうなずく。
 向かい合うふたりに、唐突に訪れた沈黙。明日香は少々しゃべりすぎた。鳴海は最初から誰かに向けて話すべき言葉をもたない。だから、ふたりの間にただよう沈黙を、おたがいは当然のものとうけとめる。これはカウンセリングではないのだ。
 医師たちは入所者たちが積極的に交わることを奨励してはいなかった。マイナスにマイナスをかけても、ここではプラスにはならない。もちろん、プラスにマイナスをかければマイナスになる。だから、医師たちの思惑以前に、入所者たちも誰かと交流を持とうという者もいない。明日香と真琴は友達ではなかったし、もちろん鳴海と明日香も友達ではない。ただの顔見知りだ。
「あ」
 と、鳴海は明日香の言葉の残響の向こうに、遠く聞こえてくる旋律をとらえた。聞き覚えのある、あの曲。音楽だ。
「なに?」
「音楽が聞こえる」
「え?」
 明日香は部屋の扉を向き、耳をすませた。まるで音楽がここへやってくるのを待つようなしぐさだ。
 旋律はあの夜と同じように、遠くから届く。風に乗って流れてくるささやきのようだ。午後九時。あの夜と時刻も近い。
「誰が、弾いてるのかな。これ、ピアノだよね。真琴?」
「稲村先生」
「稲村先生?」
 明日香はいぶかしげに聞き返す。直接彼を知っていても、たしかにピアノと稲村の組み合わせは妙だと鳴海は思う。
「稲村先生、そういう趣味があるんだ」
 目を細め、明日香は耳を傾ける。彼女と音楽、いままでまったく想像すらしなかった組み合わせだが、静かな夜、陶器のような肌の明日香の横顔は端正で、稲村の奏でる旋律は彼女に似合っていた。空やそこに浮かぶ雲をひとりで見上げる明日香、気象通報をひとりで聴く明日香。孤独をしらずのうちに自分のものにしてしまった彼女に、稲村の奏でる透明な水流を思わせるピアノは、ふさわしい。
「明日香ちゃんは、音楽なんか聴くの?」
 手元の「絵葉書」をとんとんとはずませてまとめ、鳴海が訊く。さりげなく。
「音楽、か……。音楽。聴かないな、そういえば。聴いた記憶なんかないな」
 いつもなら軽く受け流すかはぐらかし、まともに質問には答えないだろう明日香は、ずいぶん素直な声でそう言った。組んでいた足をいつのまにか抱えていた。
「そういう趣味はなかったから」
 短く切った髪をかきあげ、顎をひざにのせ、明日香の声はかすかにかすれていた。
「趣味か、ひさしぶりに聞いたな、『趣味』なんて言葉。ここにいればいくらでも時間なんてあるのにね。気がついたらこうして、夜になってね」
 明日香は頬を自分のひざにこすり合わせ、そのしぐさは毛づくろいをするネコのようでもある。彼女の表裏、つまりはいつもシニカルで他に興味を示さない裏には、かすかなひびが入ればわずかな作用で砕け散ってしまうガラスのような、そんな一面が隠されているにちがいない。彼女もまた、<施設>の一員なのだから。
「鳴海さんは、絵を描くのが好きなんでしょ」
「えっ」
「ほら、そこの絵、鳴海さんが描いたんじゃないの?」
 丸みを帯びた小さなあごで明日香は鳴海の兄が描いた<風景>を指す。「ちがうの?」と明日香の目は問うていた。
「これは、兄がくれたの。ここしばらくわたし、絵なんか描いてない」
「じゃあ、絵を描くのが好きなんだね」
「うん、昔から。本当にときどきだけど、わたしに絵を送ってくれたりするのよ」
「ちがうちがう、鳴海さんよ。絵を描くのが好きなんでしょう?」
 シニカルな目ではない、少女のようなやさしく好奇心に満ちた瞳が、けれど少しだけ屈託した光が、鳴海を向いていた。
「ここしばらく、絵なんか描いてないわ」
「嫌いになったの?」
「ううん。描けなくなった、のかな。そう、……描けなくなった」
「どうして」
 抱えていたひざを解き、明日香はベッドの上であぐらをかいた。今夜の明日香は真琴にも負けない話好きの女の子だ。
「さあ、わかんない。描きたくなくなったの。描くものがないんだもの。描いたって誰も見てくれない」
 誰も見てくれない?
「わたしじゃ、だめかな?」
 軽く身をのりだして、明日香はおどけた口調で言った。稲村のピアノが、いったん止んだ。
「どういうこと?」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介