夏の扉
独白だ。ぼそぼそとひとりごとのようにしゃべりつづける明日香の声はしかし、明瞭だった。奇妙だ。たがいがたがいに無関心だったはずの<施設>で、何かが変わろうとしている。
「だって、酸性雨が降りつづく夜にわたしは生まれたのよ。ろくな明日がこないのを知ってて、よくまあこんな脳天気な名前を付けたもんだわ」
彼女独特の冷笑。顔のわりに声は低い。
「ほんというとね、わたし、鳴海さんの名前、最初は苗字だと思ってた。鳴海さん鳴海さんって、そう呼ばれていたでしょう。だから。『綾瀬』が苗字だって知ったのは、けっこうもうずっとあとで。興味もなかったけどね、正直言って。真琴の名前を知ったのだって、やっぱりもうずっとあとだったし。あの子の場合は、名前も苗字も知らなかったけど」
冷笑、冷笑。
「鳴海さんか。鳴る、海、ね。いい名前なんだか悪い名前なんだかわかんないね」
同意を求めているのか、彼女の声はたしかに鳴海を向いている。
「鳴海さん、海を見たことがないんだっけ」
「ないわ」
「昼間聞いたよね」
鳴海は沈黙で返した。
「あの環境調査員さん、変わってるわ」
ちらりと見ると、明日香はベッドに半分転がっていた。自分以外の誰かがこのベッドに横たわるのは、はじめてだ。もちろん、鳴海が入所してからだが。
「白石さんっていうんだっけ。おかしな奴」
「おかしい?」
「わたしたちが言うのもなんだけどね。おかしいわ。わたしたち相手にべらべらしゃべって。そう思わない?」
「明日香ちゃんだって、わたし相手にべらべらしゃべってるわ」
われながら冷たい口調だっただろうか。そう思う自分に愕然とする。
「そういえば、ね。いいのよ。鳴海さんと昔話をしにきたの。きょうはね」
「話すことなんかないわ」
「冷たいね」
「いつものことでしょう。明日香ちゃんだって、似たようなものだと思うけど」
「たしかにね」
「だったら、いいでしょう」
砂浜、沈船、青空、夢。風景を繰る手が止まる。
「でも、じゃあどうしてわたしを部屋に入れてくれた?」
平淡な声で言う明日香に、鳴海は顔を上げた。そうだ、どうしてわたしは。
「はじめてよね、鳴海さんの部屋に入るの」
だまってうなずいた。明日香の部屋を訪れたことはあったが、彼女が鳴海を訪れたことはなかった。
「いつだっけね、わたしの部屋に鳴海さんが来たの。あれ、何しに来たんだっけ」
よくは覚えていなかった。覚えているはずがない、鳴海はできるだけ物事を忘れようとしているのだから。覚えなければ、シーンを追加しなくてもいい。
「天気通報聴きに来たんだっけ。八時の」
「さあ、覚えてないわ」
「わたしの部屋に来るひとって、わたしに用があるんじゃないのね。ラジオ。国営放送しか聞こえないのに」
明日香の部屋のラジオが思い出せない。思い出せない。思い出せない。どんな形だったのか、どんな番組を聴きに行ったのか。それもひとりで行ったのか、誰かと行ったのか、明日香について行ったのか、わからない。
「天気通報、全部聴いたことある?」
白熱灯に照らされた明日香の顔は、象牙色であたかも蝋細工のようだ。いつも斜にかまえ、脱力したような表情をはりつけて談話室で真琴とテーブルについている彼女が、ふとひどくはかない存在に見える。いままでそんな感情を抱いたことがなかったから、鳴海は胸にためた呼気を吐き出さず、いっときつやのあるショートヘアを、明日香の姿を、しっかりととらえようと試みる。
「南からずっとね、聞いたこともない街の天気を、アナウンサーが読みあげていくのね。もう沈んじゃった街とか、沈みかけている街とか、そういうところはなんて言うと思う? アナウンサーはただ、『入電がありません』って言うのね。学生やってたころは、おかげで全部の定点観測ができなかったから、ずいぶん不便だったけど、ここで聴くとまた違うのよ。ああ、情報を送れないのか、どうしてなのかなってね。単に機材の故障か、それとも測候所そのものが観測どころじゃないのか、だったらどうしていまだに観測地点として読みあげられるんだろうって。ひょっとしたら、もうそこには誰もいないのに、でも誰かがいたんだってことを、忘れないようにするために、入電がなくても地名を読みあげているのかなってね。そう考えるようになったのね」
明日香の部屋のラジオは年代ものだ。あちこち傷だらけで、アンテナは蔦のようにゆがんでいた。ラジオの前に座ってアンテナの方角を懸命に調節している明日香の、こっけいなほど真剣な顔が、鳴海の頭上に湧きだした。見たことがある。わたしは、忘れてはないなかった。いつか稲村が言っていた。人間は、一度見たものは忘れない。画像をそのまま、脳はどこかに記憶していて、自分でも気がつかないうちにどんどんその容量は増えていくのだと。夢で出会う見知らぬ人も、知らない街も、風景も、すべて実はずっと昔訪れたり出会ったりしたことのある風景。
「こんど、一緒に聞いてみようか?」
「なにを?」
「気象通報よ。いっしょに聴いてみない?」
小首を傾げる。きっと明日香でなければかわいらしい動作なのだろう。けれど彼女がすると、ちぐはぐで可笑しい。
「なに?」
明日香が訝しげに眉をひそめた。鳴海はあわてて無意識に浮かんだであろう微笑をうちけした。
「ごめん」
「いいよ。鳴海さんが笑うところなんて、あんまり見ないから、貴重よ」
唇の端だけ動かして、明日香も笑う。到底笑顔には見えないのだけれど。
「……はじめてね」
鳴海はそっとつぶやいてみた。明日香がどうとらえてくれるか、淡い期待と不安と、ないまぜになった胸の奥は奇妙な熱を宿していた。
「なにが? はじめてって」
明日香が聞きかえす。
「明日香ちゃんとまともに話をしたのって、はじめてじゃないかな」
虚を突かれたように、明日香は目を見張った。そして、こんどは声を出して笑った。
「そうかもね。そうなんだ」
談話室で真琴とささやくように笑う、あの声ではない。愉快そうに、明日香は笑っていた。
「こんな長い間、真琴以外と話をしたのも、はじめてだわ」
「そうなの?」
「ここに来てからはね。ううん、学生やってたときも、友達なんていなかったから、いまがはじめてかもしれない」
「友達」
「そう、友達。わたしね、嫌われ者だったから」
こんどは、自嘲。紙をかきあげ、あごを突き出す。彼女のスタイル。
「鳴海さんは? 見たとこ、わたしと同類って感じがするけど」
同類。友達。鳴海は彼女から目をそらした。
「嫌われてたのかな。そうかもしれない。わたし、こういう人間だから」
「どういう人間?」
「どういうって……」
考える。わたしは、誰?
「鳴海さん、どうしてここにいるの?」
明日香の声は自分の声よりもずっと落ち着いている。低いとか太いとか、そういう次元ではない。落ち着いているのだ、いつでも。ときおり発作に耐えられなくなる自分を、きっと明日香は嫌っているにちがいない。
「どうして、かな。。……気がついたらここにいたわ。そういう感じ。考えたこともないわ、どうしてここにいるのかって。明日香ちゃんは?」