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夏の扉

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 こんなに早い時間に地下鉄に乗るのは久しぶりだ。学生時代以来だろうか。甲高い走行音と、コンピュータで合成されたアナウンス。感情がこもっているのかいないのかが分からない、若い女性の声。乗客は少なく、だから反対側の窓に映った自分が、鏡をのぞくように見える。こんな風に、じっくりと地下鉄に乗ったのは、本当に久しぶりだった。ただの移動手段ではなく、今は乗り物として地下鉄を感じていた。
 旧市街を南北に貫くこの路線は、十数年前、南の終着が延伸された。以前の終着駅からいくつか手前で電車は地上に上がり、窓からは山の斜面びっしりに建つ高層住宅が見える。街区ごとに呼び名もあったが、住人たちは自分たちのすみかをただ、<団地>と呼ぶ。正式名称があるにもかかわらず、<施設>が<施設>としか呼ばれないように。地下鉄が延伸されたのは、<団地>が完成し、そこへ通ずる交通機関を整備するにあたり、とりあえず南の終着をさらに延ばすことで片をつけた、ただそれだけの話だ。終着駅が変更されたのは、前世紀、この街で開催された冬季オリンピックを契機にこの路線が開通してから、初めてのことだった。それも、旧市街が水没すれば、この路線はあっさり廃止されることが決定していた。
 電車は延伸区間に入っていた。ぐぐっと右にカーブを切り、高架のままで<団地>を目指す。川を渡り、通る車も少ない国道をまたぐ。右手から左手へ、ぐるりと高層住宅が広がる光景は、安物のアトラクションによく似ている。怜のアパートは、まさにこの路線の終点からほどちかい高層住宅にあるのだ。
 真新しいけれども即席の香りが強い終着駅。自動改札を抜け、いかにも人工的な街並みを、ふと立ち止まって眺めてみる。ビルディングのガラス窓が真っ青な空を反射していて、怜はビルとビルの隙間にのぞく空ですら、どこかフェイクにも見えてしまう。この街は、おかしい。怜はポケットの鍵を検めた。駅前の地球ゴマのモニュメントを横目に、駆けていく子どもたちを横目に進む。子どもたちはいつだって駆ける。何をそんなに急ぐのかと、見ているものが疑問に思ってしまうほど、よく駆ける。そして、笑う。
 アパートへ向かう石畳の坂道をいく。振り返れば旧市街が一望できる。遠く、森林地帯に一本、尖塔が建っている。この地方の開拓百年を記念して建てられた塔だ。
 そうか、まだ二百年たっていないのか。
 強制執行は旧市街だけでなく、周辺地区も対象となっていた。そして人が消えた街は、ゆっくりと、開拓時代より以前の姿へ帰ろうとしている。
 そうか、戻るのか。
 怜は尖塔を視界の端にとらえながら、そっと呼吸を止める。周囲の音がことさら大きく聞こえるが、それは空調の音だったり、ビル風の音だったりするのだ。怜は向き直り、自分の部屋を目指す。<S15-18-1506>、それが彼の部屋を示すコードだ。「南十五街区−十八棟−一五〇六号室」というわけだ。
 エレベーターホールは薄暗い。どこかからか子どもの泣き声が聞こえる。二基あるエレベーター、ひとつの箱は上昇中、もうひとつの箱は最上階、二〇階から怜の呼び出しに応じて降りてくる。音も立てずにドアが開き、瞬かない蛍光灯が眩しいくらいの箱の中へ、身を滑り込ませる。十五階のボタンと「閉」のボタンを、ほとんど同時に押す。するすると箱は上昇していく。降り立った十五階のエレベーターホールもまた、ひんやりとしていた。慣れた匂いだ。自分の匂いにかすかに似ている。ここは独身者用の階層だ。廊下の両側に並ぶ扉を見ると、怜はいつでもなぜか、墓地を連想してしまう。なぜなのかを考えたこともなかった。さして意味のある連想とも思えなかった。だから前の担当医にも、稲村にもこのことは言わなかった。そもそも普段は忘れている。箱を降り、自室のキーを鍵穴に挿し込もうとしたときだけ、その連想が蘇るのだ。自分は、墓穴の鍵を開けているのだ、と。
 つい数時間前の自分の余韻がまだ残っていた。簡素なキッチンの隅に、洗って伏せた食器が見える。ミルクは好きだが、あとに残る臭いは好きではない。だからミルクを注いだグラスや、シリアルを食べる器は、いつも必要以上に時間をかけ、洗う。
 二部屋あるアパートの、すべての窓のブラインドを下ろして出かけた。だから部屋は冷えきっていた。上着をハンガーにかけ、怜はブラインドをすべて上げる。窓は東を向いているが、見えるのは十七号棟の蜂の巣のような窓ばかりだ。それでも自然光を部屋に入れるのは悪い気分ではない。
 怜はベッドに腰掛け、華奢なナイトテーブルから灰皿を手繰りよせた。が、煙草は上着のポケットに入れたままだ。立ち上がり、部屋の反対側のハンガーへ。フローリングの床が冷たい。ポケットから煙草を取りだし、一本抜きだしてくわえ、ベッドに戻る。ライターで火を点けた途端、空調のスイッチが自動的に入る。常時スタンバイ状態なのだ。だから部屋の空気はいつでも浄化されている。<施設>の待合室のように、分厚い煙の層ができたりはしないのだ。
 深く煙を吸い込み、吐く。頭の先がくらりとする。今日三本目の煙草は、しかし旨くはなかった。怜は半分ほど喫って、もみ消した。
 寒い、この部屋は、寒い。
 両腕を抱く。ここは、寒い。
 テーブルにのせてあったコントローラを取り、TVのスイッチを入れる。電源が入る際の音が、驚くほど大きかった。暗い画面が徐々に明るくなる。映っている人物の輪郭がはっきりとしてくる。目覚めた直後の視界のように。音声はミュートしてあった。ボタンを操作し、音を出す。
「……らは、統合社会管制機構です。私達は住みよい社会、希望ある未来を築くため、日々皆様とともに……」
 陳腐なフレーズのオンパレードだ。チャンネルを変えても、この時間に馴染みがないためか、どんな番組を放送しているのかが分からない。途中から見たところで内容が理解できるとも限らない。怜は再度音声をミュートして、適当なチャンネルに合わせた。
 ベッドに転がると、すぐそばに空を感じられた。手を伸ばせば届きそうな場所で、雲が漂っていた。怜は実際に腕を伸ばしてみた。指が空を切る。痺れるほどに腕を伸ばす。そっと、雲をつかんだ。しかし、次の瞬間には彼の指から流れ出す。まだ、届いていない。怜はさらに腕を伸ばした。指先が硬く冷たい何かに触れた。空に触れてしまったように感じ、慌てて腕を引っ込める。
 もういちど。
 腕を伸ばす。あと少し、あと少しだ。
 何度腕を伸ばしても雲には触れられない。伸ばした先で触れられるのは、硬い空の果てだけだ。それでも怜は腕を伸ばした。空に触れられるんだ、雲をつかめたっていいはずだ。
怜はベッドの上に仰向けになり、腕を伸ばしつづけた。そして雲は、彼の指の隙間から、次から次へとこぼれ、流れていくのだ。


   五、プロペラ
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介