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夏の扉

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 兄は自分が呼べばすぐに駆けつけてきてくれる。幼い頃はそうだった。庭で遊んでいたとき、はぐった石の裏から大きなムカデがはい出てきた。鳴海は飛びのいて兄を呼んだ。するとすぐに彼はやってきて、裏返しになった石をムカデにかぶせた。だから、いまも鳴海は兄を探す。
「お兄ちゃん?」
 いくら呼んでも兄は来ない。こんな広い浜辺に、自分ひとり。鳴海は船から、海から離れようときびすを返し、走った。波を蹴り、砂を飛ばし、走った。でも、まるで水の中を進んでいるようで、まったくうまく走れない。空気が重い。
 砂に足をとられた。そして、鳴海は転んだ。一面の砂浜に、転がった。涙がにじむ。誰もいない。わたし、ひとりだ。
 と、砂を踏みしめる音が耳に届く。
 影が鳴海に落ちる。誰?
「お兄ちゃん?」
 やはり来てくれた。兄だ……。鳴海は顔をあげ、彼の姿を確認しようとした。
 まぶしい。太陽が邪魔をして、すぐそばに立っている彼の顔が見えない。
「お兄ちゃん」
 鳴海は起き上がれなかった。砂にすっかり身体が埋まってしまっているようだ。すると、彼はしゃがみこんで、鳴海の手をとった。
「ありがとう……」
 重い身体をようやく起き上がらせて、鳴海は砂浜に座りこむかっこうになった。まだ、彼の顔が見えない。
 轟音。
 顔をあげ、音を探す。
 二本の白いコントレイル……飛行機雲。碧空を切り裂くような、あまりにも白すぎる航跡雲。
「お兄ちゃん!」
 飛行機は鳴海の頭上をはるかに越えて、海へ向かって飛んでいく。振り返りもせず。
 あれは兄の飛行機だ。灰色の翼、一人乗りの飛行機。行ってしまう。わたしを置いて。
 鳴海ははねるように飛び起き、コントレイルが伸びる海へ向かって走る。けれど身体が重い。太陽がまぶしい。早く、早く。そうしないと行ってしまう。
 見る間に飛行機は見えなくなり、また鳴海は取り残されてしまった。置いていかれてしまった。
 がくりとひざを砂浜につき、鳴海は頭をたれた。轟音だけがまだ、海岸線に残っていた。
 兄が、行ってしまった。
 そこで鳴海は振り返る。だったら、わたしを起こしてくれた彼は誰?
 彼はまだそこにいた。フリントを擦る音、煙草の煙、困惑した瞳。怜だ。
「あ」
 一口煙草を喫い、吐き出した煙は風に舞った。照れたような笑み、まぶしそうな顔。
「鳴海さん」
 彼が口を開いた。でも、その声は鳴海が知っている彼の声ではなかった。
「白石さん?」
 鳴海は問う。あなたは、誰? わたしが知っている人と、声が違うわ。
「鳴海さん」
 再度、彼は鳴海を呼んだ。その声は怜のものとは違ったが、でも聞き覚えはあった。
 怜が煙草の灰を落とす。すると、不自然なほど場違いな、何かをたたくような音がした。こん、こん、と。
 ゆっくりと世界が輪郭を無くしていく。文法は崩れ、やがて怜の身体が空気や海風や、そしてまだ見ぬ砂浜に融けていく。音だけが、怜が灰を落とす硬質な音だけが、鮮明に鳴海の耳を叩き続けていた。
「鳴海さん」
 目を閉じ、世界を固定化しようとした。両腕でこの風景を抱きとめた。すると、もういちど彼女を呼ぶ声が、ずいぶんと近くから聞こえた。こん、こん。
 ちがう、これはノックだ。誰かがドアを叩いている。
 ノック?
 そこで目がさめた。
 明かりが灯ったままのライティングデスク。鳴海はいつのまにか居眠りをしていたらしい。頬の下には、昼間怜から渡された兄の絵葉書。右手には、直接兄が手渡してくれた砂浜の絵。鳴海はこれを見ながら、いつしか眠ってしまったのだ。
 夢。
 ノックの音は続いていた。
「鳴海さん」
 今度は誰の声なのかはっきりとわかる。声の主はわかったが、鳴海は意外な気がした。彼女が来訪してくるなんて。
「寝てるの?」
 飾りのない声。少々粗いノック。明日香だ。
「あ、いま、開けます」
 席を立つと、身体が重かった。わたし、走れるだろうか。夢の続き、腕を伸ばしてみる。指先に錆だらけだった船の感触がまだ残っていた。
 ドアを開ける。廊下の明かりはもう落ちいていて、常夜灯がぼんやりと灯っていた。いま、何時だろう。
「ごめん、遅くに」
 愛想笑を浮かべることもなく、ぶっきらぼうな顔がそこに立っていた。見慣れた表情、明日香のそれ。
「入ってもいいかな」
 鳴海の部屋に灯った明かりに目を細め、明日香は言う。彼女が部屋を訪れてくるなんて、まったく予想もしていなかった。だから、鳴海はことわるすべを持たなかった。
「どうぞ」
 鳴海は身を引いて、明日香を部屋に通した。淡いブルーのスウェットを着た彼女は、いつもよりもずっと、背が低く見えた。
「椅子がないから、ベッドに座って」
「わかってる。ここの連中で自分以外の椅子をもってるのは、先生方くらいだものね」
 そう言って明日香は唇の端を軽くゆがめた。笑ったのだ。
 明かりはライティングデスクの白熱灯だけ。白のカーテンを引いた窓から外は見えず、だから閉鎖されたこの部屋にただふたり、ぼんやりと明かりに照らされたおたがいを見つめて向かいあう。しばらくは鳴海も明日香も口を利かなかった。耳をこらせば、屋上でプロペラがゆっくりと回る音すら聞こえる。明日香が体勢をかえれば、マットのスプリングのきしみが聞こえる。そのうちおたがいの呼吸すら聞こえる。そんな静かな夜。どちらかが口を開くまで、きっと言葉がこの部屋に転がることはないだろう。そのことをふたりとも知っていた。知っていたが、言葉を発するきっかけは知らなかった。明日香はじっと、鋭く澄んだ目で鳴海を見つめていた。昼間にやはりここを訪れた怜が、ひととおり部屋の四方に視線をめぐらせたのと対照的だ。明日香は最初から、鳴海をめあてにやってきたのだ。部屋の装飾などには興味がない。
「昔話をしましょう」
 うつむき加減に、明日香のショートヘアがゆれる。そろった前髪が幾筋か、南だか場違いなセリフといっしょにこぼれた。だから鳴海は聞き返した。
「えっ」
「昔話を、しましょうって言ったのよ」
 顔をあげた明日香は、色の見えない瞳をまっすぐに向けていた。
「ここで話すことって言ったら、昔のことくらいしかないから」
 明日香はそう言って脚を組んだ。いまはじめて、鳴海は明日香の脚が細く長いことに気づいた。
「話すことなんか、ないわ」
 視線を明日香からはずし、言う。
「そう、か」
 ふたりきりで会話をするのははじめてだ。そう、きちんと会話になっている。言葉を投げかけ、返す。おたがいが変化球を放る。限りなく直球に近い変化球。
「わたしが生まれたのは、二一年と三か月前。雨が降っていたらしいわ。一晩じゅう。日付がかわるかかわらないか、ぎりぎりにわたしは生まれたんだって。だから、『明日香』って名前らしいの。笑っちゃうほど簡単よね。きょうと明日の境目に生まれたから、明日の字を取って、だもの。ばかな両親。外は酸性雨が降りしきっていたのにね。明日もなにもないと思うけど」
 鳴海はしゃべりつづける明日香を見ず、手元の、兄の描いた風景を一枚々々、繰る。
「きっと明日の匂いは酸っぱいんだわ」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介