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夏の扉

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 しかし、あの日は違った。
 防風林の向こうに、明日香は人影を見つけた。最初は草がゆれたのだと思った。風にゆすられて、背の高い雑草が見をよじらせたのだと。だがその影はしだいにゆっくりこちらへと近づいてくる。揚水機場の角を曲がり、アスファルトを割って草が茂る道路を、<施設>に向かって歩んでくるのだ。明日香は寄りかかっていた壁から身体をはなし、複層ガラスに額をおしつけるようにして彼の姿を追った。彼は<施設>の前で一度立ち止まり、懐から一枚の紙を取りだして広げ、すぐにまたしまいこんだ。深呼吸をしたらしく、彼の肩が上下していた。そして彼は、まっすぐに<施設>のエントランスに消えた。明日香は息を止め、こんどは窓に背中をあずけた。彼女程度の荷重では、ここのガラスはびくともしなかったが、明日香は背中でガラスがゆがんだような気がした。自分の身体が、透明な壁を突き抜けて、外の空気に溶けていくような頼りない感覚だ。
 何年かぶりに訪れた外来。それが、あの休職中の環境調査員だった。
 入所している者どうしはたがいに無関心だが、外から来る者にたいしては誰もが関心を持っていた。だから彼が環境調査員であることは、あんがい早く、明日香の耳に届いた。環境省の人間が、<施設>にやってきた、しかも患者として。入所者たちの耳目を集めないはずがなかったのだ。けれど誰も、彼と交流をもとうという人間もいなかった。つとめて無関心に彼に接していた。明日香自身、とっくにあきらめた夢の、その体現者が現れたというのに、直接話をする機会に恵まれても、彼を追い返すことしか考えられなかった。外からきた人間は、ここにはなじめない。もっとも、彼自身ではなく、彼の職業に興味を持ったのは事実だったが。でも彼は、明日香にではなく鳴海に興味を持ったようだった。
 明日香は、鳴海のことをまったくと言っていいほど知らない。鳴海は明日香以上に自分のことを語らないし、他人と交流を持とうとしないからだ。たがいがたがいに無関心だから、どちらかが口を開かないかぎり、永遠の沈黙がここには流れる。かりに明日香が鳴海と同室に閉じ込められたとしても、何日でも何週間でも口を利かなくてもきっと平気だ。それは鳴海も同じにちがいない。ときおり口を利くのは、社交辞令に過ぎないのだ。真琴は少しちがうようだが。
 明日香は起き上がり、壁にもたれかかった。背中の壁の向こうも病室。けれど、誰が入っていたのかはよく覚えていなかった。二つ向こうの部屋が鳴海の部屋だ。彼女はいま、どうしているだろうか。明日香はふと、彼女がここを出て行くような気がしていた。ひとりでではなく、あの環境調査員に連れられて。そうだ、間違いなく、彼はここを出て行く。もともとここの人間ではない。いつも外からここに通ってくる、外来なのだ。だから彼はいともたやすくここから出て行ける。帰る場所があるのだ。明日香も、鳴海も、真琴でさえも、帰る場所はない。身の上話をしなくても、それだけはわかる。帰る場所を誰も持っていないことを。
 もしあの環境調査員に連れられて鳴海がここを出て行ったら、そのあと、彼女は街の人間になるのだろうか。ここを忘れることができるのだろうか。
 後頭部を壁につけたが、隣人の気配はまったく感じられなかった。明日香はときおりすれ違う隣人の顔を思い出そうとした。ページを繰る音。そうか、隣は彼か。いつも談話室でハードカバーをめくっている、彼だ。歳は自分とそうかわらないと思うが、一度たりとも口を利いたことがない。彼が誰かとしゃべっているのも見たことがなかった。明日香は壁によりかかっていた身体を離し、ベッドから足をおろした。
 鳴海と話をしたい。
 脈略もなく、明日香は思った。あの環境調査員のことを、彼女としゃべってみたくなった。そして、外のことを。昼食をとりながら、環境調査員と真琴とそして鳴海とテーブルを囲んで話した、とりとめもないストーリー。ついつい口をついて出た自分の身の上。あとでしばらく自己嫌悪に陥ってしまったが、真琴があれこれ詮索してくることもなかった。
 わたしは、もう戻れない。
 けれど、彼女は戻っていくような気がした。
 彼と、ともに。
 明日香は立ち上がり、スリッパをはいて部屋の灯りを落とした。


   三五、色鉛筆

 砂浜。
 いまだ見たことのない風景。
 波が寄せ、返す。白い波頭ははるか水平線まで幾重にも続き、潮騒が一定のリズムで耳に届く。頬をなでる風は涼しく、足元は一面の砂だ。
 ゆるやかに弧を描いた海岸線に、錆色の船が座礁している。大きい。鳴海は足元の砂を踏みしめながら、歩く、船に向かって。
 兄にきつく言われていた。船はずっと昔、台風で航路を見失い、そして座礁したタンカーだ。母港に戻ることもできずにそのまま朽ち、捨てられた。捨てられた船だからいつ崩れてもおかしくない。だから中には入るなと。
 鳴海は歩いていた。ゆるやかに弧を描く海岸線を、砂浜を歩いていた。太陽がじりじりと照りつけているのに、海から吹く風がその熱を奪ってちっとも暑くなかった。季節がわからない。水平線のかなたに巨大な雲が浮かんでいて、一秒、一分と同じ姿にはとどまっていなかった。そうか、夏なんだ。
 夏の海、潮騒、鳴る、海。
 錆だらけの船は思ったよりも遠く、振り返ると自分の足跡が一列。わたしはいったいどこから歩いてきたんだろう。兄の姿を無意識に探していた。それにしても、遠い。
 砂浜、砂浜、砂浜。
 陸に向かって砂地は砂丘となり、葉の長い名前も知らない草が茂っていた。山も街も見えない。ここはどこだろう。誰に連れられてきたんだろう。疑問は湧くが潮騒が打ち消す。やがて鳴海はようやく船の前に到着した。向こうから見たよりずっと大きく、人が造りだしたものには到底見えない。なにか生き物の抜け殻のように見えた。
 船の舷側は裂けていて、それは錆のせいなのかここに座礁したときにできた傷なのかはわからなかったが、鳴海はそこから生き物が殻を捨てて出ていった穴に思えた。船体の半分は海に沈んでいて、ぱっくりと口を開けた裂け目は、波頭に洗われていた。でも歩いてそばまでは行けそうだ。靴を濡らしたくなかったので脱ごうとして気づいた。自分は裸足で歩いていた。けれど足の裏に砂の感触はない。つま先で砂を掘ってみたが、やはり感触はなかった。おかしいなとは思いつつ、鳴海はそのまま波打ち際に歩く。
 船は太陽を隠し、砂浜に広く影を落としていた。そこに入ると涼しい。舳はもう目の前で、指を伸ばすとざらりとした感覚が伝わった。変だな、砂の感触はないのに。鳴海は指先でなんども船体をなでた。人差し指の先に、赤黒い錆がつき、それを海水で洗う。海は暖かく、両手を浸して水をすくってみた。おかしなことに、錆だらけの船と海の水は、同じ匂いがした。
 風が吹く。船体がきしむ。木の扉を開けるときのような、きしみ。鳴海はふと怖くなった。ひとりでいるのが、怖くなった。もういちど、兄を探す。こんどは声を出してみる。
「お兄ちゃん」
 声は裂け目から船の内部に広がってこだまし、いつまでも聞こえた。
「お兄ちゃん」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介