小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

夏の扉

INDEX|56ページ/125ページ|

次のページ前のページ
 

 目を閉じると明日香はいつも、ここが懐かしい下宿の六畳で、ようやく設置したパイプベッドに転がっている気分になる。けれど、目を開ければ現実だ。ここは<施設>の自室で、ふたつとなりは鳴海の部屋。いったん部屋にこもってしまうと、ここの入所者はめったに部屋から出てこない。入浴時間の割り当てで廊下や更衣室で顔をあわせても、おたがいの部屋を行き来することはなかった。下宿では違った。学部や学科を越えて、誰かが誰かの部屋を訪れてくだらない話をしていた。自室にこもっていても、誰かが誰かと笑いあったり話し合う声が聞こえた。だから実家を出てすぐでも、寂しさは感じなかった。そう、あの声が聞こえてくるまでは。
 毎日研究棟の屋上から、観測機器を抱いた気球を飛ばすのが明日香の仕事だった。一気に数千メートルまで上昇して、雲の中や風の通り道、そして紫外線の強さを観測して、降りてくる。リモートコントロールはコンピュータ制御で、明日香はただ、ロックをはずして気球を解き放てばよかった。友人や先輩の研究員と飛ばすこともあったし、ひとりでロックを解除することもあった。気球が帰ってくるまで、明日香は図書館で見つけた古い天文年鑑や理科年表を眺めて過ごした。真剣に読むのではなく、前世紀のある夏の日の月齢、見える星座、そんなものを目で追うだけだったがいい時間つぶしだった。大学を卒業したら、環境調査員になるつもりだった。こんな世界をどうにかしたかった。いやちがう、どうしてこんな世界になったのか、そしてどこへ向かうのか、見届けてやろうと思っていた。<機構>がなんと言おうとも、世界ははじまったのではなく、いまは午後六時の時計の鐘が鳴り響く黄昏の時代だった。暮れていくだけだ、そのあとは闇しかない。けれど明日香は思った。闇が支配する夜だって、捨てたものではない。青い空やまばゆい太陽は見えないが、きらめく無数の星空と、はるか昔からそこにいる月が浮かんでいる。黄昏をそっと過ごしたあとは、静かに星空を見上げればいいのだ。
 大学の仲間には、環境調査員を志望する明日香を変人あつかいして笑うものもいた。割に合わないのだ、重労働のわりには。それも知っていた。けれど、友人たちや先輩がめざすように、<機構>の一員となることには魅力を感じなかった。もちろん政府が<機構>の実効支配を受けて有名無実化していたから、環境省はすでに<機構>の下部組織で、けれど権限は拡大していたから、就職先としては人気は高かった。重要性もある。けれど環境調査員は、いわば情報集めの末端構成員だ。それを大学を出て志望する仲間はひとりもいなかった。ようするに、明日香は研究室でも教室でも、変人だった。自分でも認めていた。
 自分では越えてはいけない一線を、<声>はいともたやすく越えさせた。変人が狂人になってしまったのだ。すくなくとも明日香を同情的な目で見る友人たちは誰もいなかった。群れず、いつも冷めた目で人の輪の外から観察していた彼女は、確かに嫌われていた。自分でもわかっていた。下宿の自室でレポートをまとめているとき、ほかの部屋から聞こえる談笑は、自分とは無縁だった。誰かがいる、そのことに寂しさはまぎれたが、その中に自分が入っていこうとは考えなかった。
 <施設>の居心地はよかった。誰からも干渉されない。担当の医師の河東もまた、必要以上の質問をよこさない。明日香がしゃべる気象観測衛星の話や、太陽フレアの極大期の話をただだまって聞いてくれる。それでいい。居心地はいい。
 自分から他人に干渉もしなかった。真琴は何かと自分になついてくれるが、彼女だって、明日香が大学にいたこと、病のせいで大学を辞めたこと、気象学を専攻していたことしか知らない。明日香が環境調査員をめざしていたことなどは知らない。教えるつもりもなかった。第一、明日香は真琴がここに来る以前になにをしていたのかを知らない。知るつもりもなかった。それがここでのルールだった。だから鳴海がなぜここにいるのかも知らないし、老婦人が明日香がすごしてきた人生の倍以上を白い壁に囲まれて暮らしている本当の理由も知らない。もし明日香がほかの入所者のことを訊かれたらきっとこう答えただろう。(それがどうしたの。わたしには関係ない)
 ベッドの上で寝返りをうつ。きしむ下宿のシングルベッドが懐かしい。
 もしあのまま<声>を聞くことなく、そのまま卒業できていたら。
 明日香は十六歳で高等教育課程を修了した。同級生たちよりも二年早く、大学の門をくぐった。理数系の科目に長けていた明日香は、だから定期試験の問題をいつも楽しみにしていた。そのうち教員たちの出題があまりにも稚拙に思えてきて、気がついたら十年足らずで義務教育課程を終えていた。大学に入学したあとは、研究室に入りびたり、観測機器の使い方や書棚に並んだ蔵書を端から読んだ。<声>が聞こえてくるまで、明日香の道のりは順調すぎた。すこし急ぎすぎたくらいだった。
 晴れた空が曇り空に感じた。<声>がしきりに彼女を呼ぶようになってから、明日香は空を見上げるのをやめた。雲がすべて人の顔に見えたからだ。学内の臨床心理士や医師たちにすすめられ、専門の病院でありとあらゆる検査を受け、そして気がついたらここにいた。あっけなく、彼女の日常は手の届かない、そして自らも手を伸ばそうとも思わない遠くへ去ってしまった。環境調査員になるという、優秀な彼女にはあまりにもささやかな夢とともに。
 ある日、明日香は<施設>の自室を出、つきあたりの廊下から外をながめていた。ここのひとたちはたいがい自室にいないときは、診察を受けているか談話室にいる。真琴のように「音楽室」でオルガンを弾くような人間もいたが、自分の部屋以外に行く場所といったら、談話室か屋上くらいしかない。空を重く感じるようになった明日香はもう、屋上には出られない。中庭は広すぎた。迷っている間にもし<声>が聞こえたら、そう思うと外には出られなかった。談話室に行けばいつだって真琴がいる。明日香を見つけると上目づかいに、そう、迷子になった子犬が飼い主を探しているような瞳で歩み寄ってくる。真琴と話をするのは嫌いではなかったが、ひとりになりたいときもある。自分の匂いがすっかり染みついてはなれない自室でではなく、いつもとちがう場所で、ひとりになりたいときが。そんな場所を、明日香は<施設>の中に見つけていた。入所者たちの部屋が並ぶ廊下を南側へつきあたり、左へ折れた窓辺だ。行き止まりの廊下には、複層ガラスが重々しい大きな窓があって、そこからは外がよく見えた。談話室からは立ち木が邪魔をして外界はよく見渡せない。けれどここなら、<施設>の前の車寄せから道路、揚水機場や防風林、天気がよければ遠く、かつて自分が住んでいた市街地を望むことができる。帰りたいわけではなかったが、ときどき明日香は廊下の端に立ち、壁に寄りかかって外をながめていた。
 <施設>の前の道路は、もうひさしく誰かが歩いているのを見たことがなかった。週に一度やってくる食糧配達のおばさんや、郵政公社の職員の赤いスクーターが三日に一度横切るほかは、誰も来ない。その気になれば、道の真ん中で誰に邪魔されることもなく背丈を伸ばす雑草たちの観察日記が書けるほどだ。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介