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夏の扉

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 ここは、終点だ。僕の知っている世界は、ここで終わっている。
 けれどふと怜は思う。自分にとってはここは終点だけれど、<施設>にとっては、<施設>の人々にとっては、このプラットホームは始発なのだ。終わりとはじまりが同居していた。
 軌道はまだ、港湾道路の真ん中を海に向かって伸びていたけれど、無粋な車止めがホームのすぐ先にでんと横たわっていて、その向こうに錆だらけのレールが一組、永遠に交わることなく伸びている。もちろん架空線を支えるポールも、ところどころで傾きつつも軌道によりそってつづいていた。
 かつてここは通過地点だったのだ。図書館にでも赴いて、古い地図でも調べれば、この線路がどこまで伸びていたのかを知ることはできる。けれど数キロ先はもう海だ。境界のはっきりしない海岸線が、きっと軌道を飲み込んでいるのだろう。それでも線路は海の中へと続いているのだ。もう水没してしまった、本当の終点へ向けて。
 ここは、終点だ。
 怜は自分に言い聞かすように、声に出してつぶやいた。始発ではない、終点だ。けれど自分はもどることができる。では、いまここに立っている自分にとって、実はこのプラットホームは始発なのだ。怜はひびだらけのプラットホームをいったん降りた。
 足元に転がっている錆びた空き缶は、はじめてここを訪れたときと同じ場所で、さらに赤茶けていた。指先でつついただけで、貫通してしまいそうなくらい。錆びる空き缶など、怜はひょっとするとここ以外では見たことがないかもしれない。そうか、アルミじゃないのか。
 防風林が海風を受けてざわめいた。根元まで灰になった煙草を、怜はアスファルトの路面に落として、靴底で踏み消した。つぶれた吸殻をひろいあげ、プラットホームにそなえてある、小さなゴミ箱に捨てた。自分の痕跡だ。
 かすかな振動、それはレールを伝って街から聞こえてくる。
 帰りの電車が、遠くにヘッドランプを点灯させて陽炎にゆらめいていた。
 帰ろう。
 次は、来週だ。ここに来るのは、来週だ。
 夏至が近い。日々、夏の色が濃くなっていた。暑い。怜は壊れた傘を手に、電車を待つ。もう、長袖は似合わないと、うっすら額に浮いた汗をぬぐいつつ。
 今年の夏は、海を見に行こう。仕事でじゃない、昔の人たちがしたように、ただ、見に行くだけだ。考えてみれば、自分は空の青しか知らない。錆び色の街で暮らしていたころ、やはり目の前に広がっていた海は、鉛色だった。仕事で歩いた海岸線も、赤茶けていたり、ベージュだったり、あるいは緑色に染まっていた。
 僕は、海の色を知らない。
 けれど、いまでも海の色は青いのだろうか。青いのだとしたら、空の青とはちがうのだろうか。
 確かめよう。
 電車がブレーキをかけながらプラットホームに近づいた。怜は一歩下がり、電車の到着を待つ。乗客の姿はなく、半そでの制服を着た運転士が、生真面目な目をして一瞬、怜の顔を見た。
 ドアが開き、怜の右足がプラットホームをはなれる。そして最後に振り返る。<施設>は、やはり見えなかった。そこで暮らす人々も、見えなかった。
 海を見に行こう。
 怜はひとりで行くつもりはなかった。
 白い肌、怖いくらいに澄んだ瞳。
 鳴海。
 現在の海を見ても、彼女は「終わり」を見てしまうのだろうか。けれど、いったい何が終わるのだろうか。
 潮騒がかすかに耳の奥でこだまする。海が鳴っている。鳴海。真水をたたえた、海。それが、彼女だ。海水に接したとき、鳴海はなにを語るだろうか。海を見たことがない彼女は、何を思うだろうか。失われた「夏」の風景を、そこに見るのだろうか。もう終わってしまった風景を、彼女は「見る」のだろうか。探してももうどこにも見つからない、破れて捨てられてしまったアルバムの一ページのように。かんじんの思い出は、えてして手のひらからこぼれおちてしまうものだ。
 そうだ、もう僕たちは「夏」をなくしてしまった。もう海へ出かけようとする人はいない。<機構>は海岸線への立ち入りを制限しているから。それ以上、海はもう、ひとびとが余暇を過ごしに出かける場所ではなくなっているのだから。
 警笛が鳴った。窓を開けたままの電車が走り出す。終点から、終点へ。怜はシートに身をあずけた。ポケットの回数券を、もういちど確かめて。

 午後八時に国営放送は毎夜、天気情報を放送する。第二気象管区の気象台が発表したデータを、ただ淡々とアナウンサーが読み上げる。全国の測候所から集まった便りを、順番に。国内だけではなく、メタンハイドレートの大規模採掘基地が洋上に建設され、エンジニアたちでにぎわう北緯五十度の異国の町の気温や風速まで。
今夜はおちついた初夏の夜。はるか北では白夜がはじまっているらしい。暮れることのない太陽を、ラジオの前で想う人間がどれだけいるのだろうか。想いは飛ぶ。時間も距離も超越し、北から南へ、西から東へ。
 水没してしまったかつての首都は、もう熱帯夜だ。気温三二度、湿度九二パーセント、風力二、気圧、一〇一二ヘクトパスカル。今夜は酸性雨注意報が全国どこにも発令されていなかった。南の地方では深刻だった酸性雨と、北の地方で深刻な、ウルトラバイオレット……暴力的な紫外線。これからの季節は、外に出歩かないほうがいい。ラジオの前で、街灯が水中で瞬く首都を想う。太平洋上に高気圧。吹きだす南風はじっとりと汗ばんでいるにちがいない。
 雑音に顔をしかめる。きしむ椅子に座りなおして、アンテナの角度を調整する。中継基地局が設置されている手稲山を向けないと、雑音がひどい。電力供給の関係で、電波の出力がおさえられているのだ。もともと、もうラジオを聞く人間はいない。
 <施設>の入所者で彼女だけがゆいいつラジオを所持している。国営放送しか受信できない、年代もののラジオだ。<機構>が情報を統制しているのは周知だから、TVを見ようとも思わない。それに、画を見てしまうと想像する余地が失われてしまうし、なにより画面を見るのは、それだけ「見る」ことに時間や体力を割いてしまうことになる。聴くだけでよかった。
 明日香はごろりとベッドに転がった。学生をやっていたころ、下宿にもどるとこうして定時の天気情報に耳をかたむけた。目を閉じて、いったこともない北の果ての国境の町や、水没し巨大な汽水湖と化してしまった東京湾の夜景を眺めたり、島ごと水没の憂き目を見てしまった沖縄の風を頬に感じるのも悪くなかった。そのときだけは、ゼミナールで自主研究しているパルス・ドップラーレーダーのことも忘れられた。もっとも自主研究といったって、空軍で用済みになった戦闘機から、師事する教授がかっぱらってきた軍用レーダーの部品を流用したのだ。ただあまりに電力を食うので、学内でもなかなか電源を入れられなかったが、性能はよかった。レーダーを作動させるときは、半径十メートル以内でも電磁波が身体を蝕むのだ。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介