夏の扉
「乗換えの待合室で、わたしたちはたまたま同じベンチに座っているのよ。わたしが乗る列車と、あなたが乗る列車は、ちがうわ。でも乗換えまで時間があるから、一緒に座って時計を見上げているのよ。そしてね、やがて列車が来るの。アナウンスが聞こえるわ。先にベンチを立つのは、わたしかもしれないし、あなたかもしれない。わたしは、あなたが乗った列車を待合室から見送るわ。わたしが乗る列車がきて、わたしも乗りこむ。あなたが乗った列車と同じ線路を、走っていくかもしれない。けれど見える風景は、もうちがうの。同じ列車に乗って、同じ窓から同じ時間に見ないと、同じ風景じゃないのよ」
ふいに、鳴海の前の四つの絵が、均等なリズムを刻んで軌道を走っていく列車の窓に思えた。流れない風景は、しかし鳴海の目には流れて見えた。
「あなたの列車は、わたしが知らない街まで走っていく。わたしが乗った列車は、途中で終点。そういうことなのかもしれないってね、思ったのよ」
車窓を頬杖をついて眺める老婦人の横顔は、鳴海の隣にあった。
「ここはきっと、どこかの駅の待合室ね。あなたの列車は、まだこないのかしら」
「有田さんが乗る列車は……」
「時刻表を、なくしてしまったのよ。いったい、いつ来るのかしらね。もう、こないのかもしれないわ。ひょっとしたら、ここがわたしの終点なのかもしれないわね。わたしの終点が、あなたの乗り換えの駅ということだって、じゅうぶんありえるわ」
終点。終わり。老婦人はプラットホームで、もう来ない列車を待ち続けているのだろうか。いやきっと、もう列車が来ないことを、彼女は知っている。乗換えで訪れる乗客たちの横顔を数えながら。
「わたしが乗る列車って、本当に来るんでしょうか」
「それは、わからないわ。でも、あなたは列車に乗るための切符を、かならず持っている。かばんの底をさがしてごらんなさい。コートの内ポケットは見たかしら。しまいこんで忘れてしまうことだって、あんがい多いものよ」
遠くで、扉を閉める音が聞こえた。改札。窓口が開いたのだろうか。
「あるいは、別な人と、そう、同じ列車に乗るために、ここで待ち合わせをしているだけなのかもしれないわ。そのひとが、あなたの切符を持っているのよ」
指に残った吸殻の感触と、かすかな紫煙の匂い。怜。
「白石さん……?」
「それはわからないわ。でも、すくなくともあのひとは、わたしと同じ列車には乗らないし、切符も持っていない。あのひとの列車は、時刻表にまだちゃんと載っているもの。本人が気づいていないのよ、駅へ行って、ホームに立つことをね。切符を持っていることも、気がついていないのかもしれないわ」
二枚の切符が、彼のかばんの底か、そうでなければポケットの奥で、鋏が入れられるのを待っている。改札口は、もう開いている。
「でも、わたしはここを出たら、行くところがない」
鳴海の言葉は、老婦人に届く前に、唇からこぼれて床に流れた。
「片道切符なのか、往復切符なのか、それも、わたしは知らないわ」
老婦人はまだ、口許に微笑をたたえていた。
階段を下りるせっかちな足音が聞こえてきた。この駅の駅員は、たったのふたりだ。
「有田さん、いや、すみません、またやってしまった」
河東医師だ。スリッパを引きずって、一階の床に降りたとき、かかとが滑ってバランスを危うくしながら、老婦人に歩み寄る。
「遅刻ですよ、二十分」
老婦人が孫を諭すような口調で言う。河東医師は首の後ろを短く太い指でかきながら、しきりに謝った。
「では、行きましょうか」
老婦人が言うと、河東医師は鳴海に軽く会釈をして先んじて診察室へ向かう廊下へ進む。
「じゃあね、鳴海さん」
河東医師とは対照的にゆったりと歩みながら、老婦人は鳴海に手をふった。それは本当に、発車した列車に手をふり別れを告げる見送りだった。鳴海も反射的に、遠ざかる老婦人に手をふっていた。
最後、老婦人が鳴海を名前で呼んだことにも、気づかずに。
三四、国営放送
晴れた午後に傘は似合わない。それが壊れた傘ならなおさらだ。怜は子どもがするように、右手の傘を大きくふりまわして遊んだ。電車がくるまで、まだしばらく。<施設>を少し早く出てしまった。あんがい時刻表どおりに運行しているLRTは、一直線に伸びる港湾道路の霞みの向こうにすら、姿を見せてくれなかった。
午後二時二二分。時計を見ると、数字がそろっていた。セイタカアワダチソウが茂る荒地の、草の匂いがきつい。海風は強かったけれど、砂が目に飛び込むほどではなかった。でも上空を飛行するカモメは、翼を広げたまま一点に滞空していた。怜は傘をふりまわすのをやめ、自動小銃を構えるように持ちなおした。折れた傘の骨が一本飛び出していて、それはまさしく銃の照準器にも見える。両目を開けたまま、怜は傘を構える。ねらいは、あのカモメだ。カモメは風を翼にはらんで、ときに緩慢に、ときに急激に上下した。それを傘で狙いつづける。揚水機場のポンプ施設と、かなたに並ぶ送電塔。怜は架空の安全装置をはずす。そして、引き金を絞る。
乾いた銃声。しかしそれは聞こえない。口の中で、怜は発砲音をまねてみた。もちろん弾丸などは発射されないから、カモメはそのまま、飛び続けていた。怜に狙われていることなどには気づかずに。もっとも、一度も自動小銃を撃ったことのない怜は、かりにこの傘が銃だとしても、命中させられるはずもなかった。それでも、いい。熟練した猟師のように、怜はもういちど狙いを決める。向かい風、それもすこし西寄りの。
第二弾。これもはずれ。怜は静かに傘をおろし、滑空をつづけるカモメを追った。何を狙っているのだろう。怜は時刻表のポールに寄りかかり、胸ポケットから煙草を取りだしてくわえ、オイルライターで火をつける。ライターはつきが悪かった。二度、三度、そして四度。五度目でようやく火がついた。左手をかざして風から火を守る。
<施設>を出る前に、待合室で一本喫ってきた。中庭を見ながら。芝生は青く、日差しがまぶしかった。誰もいない中庭と怜ひとりの待合室は、ガラス戸ひとつを隔てて寄りそっていたのだけれど、怜は外に出る気もしなかった。鳴海の兄、隆史と言葉を交わしたのはたった数時間前だった。彼と鳴海がぎこちない芝居を演じていたのは、数時間前だった。はじめて施設の屋上に上がり、隆史の言葉を聞いた。温室を出てかじったトマト、子どもたち、風車。
プラットホームに立って、怜は<施設>の白い壁を探した。揚水機場の向こう側だから、そう遠くはないはずだ。あの三連の風車が見えてもいいはずなのに、防風林が邪魔しているのか、ポンプ施設が間に入っているのか、<施設>は見えなかった。
荒涼とした港湾道路の真ん中に、電車の終点、プラットホームがぽつんとでっぱっている。ここに立つと、もう世界には自分ひとりしかいないような気分になる。電車が来なければ、永遠に閉じ込められてしまうのではないか。今日は旧市街も新市街も霞みの向こうでよく見えなかった。だからなおさら、そんな気がした。ポケットの中の回数券を取りだして、数える。あと、三往復分。地下鉄の終点から、LRTの終点まで。