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夏の扉

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 老婦人はそう言って、さも楽しそうに笑う。声を立てず、上品に。鳴海は笑おうとした。けれど、何がおかしいのかがわからない。何が楽しいのかがわからない。だから、笑うことができない。
「河東先生、いつもわたしにね、時間は守れって言うんですよ。でもね、ときどき自分が遅刻してくるのよ。理由を聞いたら、お部屋で本を読んでいて、時計を見るのを忘れたんですって。おかしいでしょう」
 稲村はいつも、時間どおりに診察室の椅子に座って鳴海を待っている。机に向かって、何か書いている。鳴海はドアをノックして、稲村が応じ、そして診察がはじまる。診察に遅れたことは、ない。自分も、稲村も。もう四年以上続いている習慣だ。
 かちり、そう音をたてて分針が進んだ。午後二時三七分。待合室には、ふたり。ふたりの距離は近かったが、隔てられた時間は、半世紀以上。老婦人は光と影が入り混じる待合室で、ゆっくりと黄昏を生きているように見えた。
「まだ、来ないわね」
「呼びに行ったほうがいいですか」
「いいのよ、どうせたいした話はしないんだから。それよりわたしは、あなたとこうしておしゃべりしているのが楽しいわ」
「わたしとですか」
「ええ。もうずっと一緒に暮らしているのに、どうしてでしょう、わたしは綾瀬さんとあまりお話をした記憶がないから」
 衣擦れ。老婦人は鳴海を向く。
「そうかな……」
 鳴海はそっと、自分に向けて、つぶやく。
「ええ。もうあなたがここに来てから五回目の夏なのに、ね」
「五回目」
「そう。わたしは、あなたの十倍、ここで過ごしているけれど」
「そんな、そんなに長いんですか」
「ええ。……。いつか白石さんにもお話したわ。ほら、ここの壁に絵が飾ってあるでしょう」
 そう言って老婦人は白い指で絵を示した。
 鳴海はまず、老婦人の指を見た。白い、肌。自分の肌とはまた異質の白さ。幾重にも刻まれたしわ、けれど、暖かそうな、肌。それから指の示した方向、四つの絵を向いた。
「わたしが見ても、懐かしい。近くに行きましょう」
 老婦人は席を立つ。つづいて、鳴海。
 四つの絵の前に、ふたり並んだ。いまはじめて老婦人と並んで立った。鳴海はそれに少しだけ、驚いていた。五年近く一緒の建物で暮らしているのに、まともに話をするのは今日がはじめてなのかもしれない。
「写真を見るより、絵を見たほうが、わたしは昔のことをよく思い出せるわ」
 鳴海は自分の部屋の机に、兄からもらった絵をそのままにしてきたことを思い出した。昼食の時間、怜と部屋を出て、そのまま診察、部屋にはもどっていない。
「綾瀬さん、絵は好きじゃない?」
「ここに絵が飾ってあるのは、知っていましたけど」
 間近で見るのは、はじめてだ。
「うまいのか、へたなのか、わたしは絵を描かないからわからないわ。見るのは好きだけれど。どうなのかな、綾瀬さん。あなたは、絵を描くみたいだから」
 穏やかな声音、けれど鳴海は老婦人を振り向いた。
「どうして、知っているんですか」
「あなたがここに来てすぐのころ、洗面所で筆を洗っていたでしょう。それを見てたのよ。それに、ときどきあなたの指が、赤や緑に染まっていたから」
 ここしばらく、絵の具なんてさわっていない。引き出しの奥にしまったきり、洗い忘れたパレットは、もう絵の具が固化してだめになっているかもしれない。
「あなたが見ると、どうなのかしらね。いい絵なのかしら」
 老婦人の視線の先には、鳴海の知らない時間が流れている。街が消え、人は消えてしまったが、山の形だけはいまとかわらない。
「いつごろの絵なんですか。それに、これはどこなんですか」
 鳴海は口許に笑みをたたえたままの老婦人に、問うた。
「わかってるんでしょう。この絵はね、もう、ここの近所を描いたものなのよ。山の形がほら、一緒でしょ」
 絵は大ぶりなフレームの中におさまっていた。ガラスにはうっすらと埃が散っていた。老婦人は指で、いまも変わっていない、頂上に送信アンテナを何本も載せた山の稜線を、すっとなぞった。
「強制執行でね、このポプラ並木はみんな倒されてしまったのよ。でも、いままで立っていたとしても、きっと潮風で枯れてしまっていたでしょうね。そうそう、ここのサイロはね、牧場なのね。<施設>ができたばかりのころ、ミルクはここの牧場のおじさんが、毎日届けにきていたわ」
 老婦人は目を細めていた。目を細めてしゃべる老婦人の横顔は、でもどこか悲しげだった。なくしてしまったものは、きっと大きく、多い。
「いれものだけは一緒だけど、もう中身はすっかり変わってしまったわ。秋になれば葉っぱが落ちるみたいに。落ちて冬がきて、そして春がやってくると、前の年に散った葉とはまったくちがう、新しい葉が生まれるのね。それと、きっとわたしたちも同じ」
 鳴海はゆっくりと老婦人を向いた。低く語る彼女の口調が、子どもに昔話を話しているようだった。フラッシュ・バック。イチゴ畑が鳴海の眼前に広がる。
「白石さんも、この絵をずっと見ていたわ。見ていたけれど、彼はこの時代を知らない。わたしが桜並木の下を自転車に乗って走っていたことなどは、知らないわ。海風はいまよりずっと気持ちがよかった。四季がはっきりしていたから、春がくればわたしは浮かれて、自転車に乗って海を見に行ったわ。友達とね。でもね、そのときはもう、はじまっていたのよ。わたしはずっと、続くと思っていた。毎年桜が咲いて、夏には浜辺を走ってね、秋には落ち葉を集めて、冬は、毎朝雪かきをしてた。季節が変わるなんて、あたりまえだったからね。ずっと、ずっとこの繰り返しだと思っていたの。でもね、同じ季節は二回もなかった。気がついたら、ここにいたわ」
 鳴海はまた四つの絵を向き、ひとつひとつの風景に自分をとけこませようとした。老婦人が通過してきた風景を、いま感じてみようとしていた。
「<施設>のことを、わたしは鏡だと思うって、さっき言ったわね。白石さんにも言った。でも、わたしはもうひとつの言葉に気がついたの。<施設>のことだけじゃなくて、わたしたちがすごしている、この世界のことなのかもしれないけれど。綾瀬さん、わかりませんか」
 茜色の夕焼け、窓に灯る明かり、水銀灯の緑、ナトリウム灯のオレンジ、街の上空をかすめる架空線の黒。
「わたしもあなたも、同じ風景を見ているのね、いま。<施設>でもう五年近く、一緒に暮らしているわ。同じ時間、同じ風景。けれどね、ひょっとしたら、わたしが感じている風景や時間を、あなたは同じように感じてはいないのかもしれない。きっと、そうなのね。
 わたしやあなたは、目的地がちがうわ。ほんとうは一緒の場所にいない人間。綾瀬さん、列車に乗ったことがあるかしら」
 鳴海は首を縦にふった。昔、記憶のかなたに霞み、じょじょに焦点をあわせていく、像。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介