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夏の扉

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 怜だろうか。彼はもう、帰ってしまったのだろうか。
 怜は自由にエントランスを出入りしていた。街とここを往復していた。そんな人間を、ここ四年間で彼女は知らない。食べ物の大半は自給自足、怜が見つけた風力発電と光発電で電力もまかなっている。外部から訪れる人間といえば、郵政公社の配達人と、どうしても自給できない食糧を配達してくれるおばさんだけだ。外出許可は比較的簡単に出るらしいが、鳴海はもちろん、ここを出て散歩に出かける人間もいなかった。エントランスに鍵はかかっていないのに、みんなは自分に鍵をかけていた。
 鳴海は灰皿に残された吸殻を、人差し指と親指でつまみあげた。煙草はフィルターの寸前までが灰になり、つぶれていた。そうだ、鳴海は煙草を喫う人間も怜がはじめてだった。身近には喫煙者はひとりもいなかったし、<施設>で煙草を喫う人間もいなかった。ここに来る前にかかっていた病院は、全面禁煙の施設で喫煙所すらなかったから、怜とここではじめて会ったときに、彼がくわえていたものが煙草であると、すぐにはわからなかった。けれど、それが「煙草」と呼ばれる嗜好品だと気づいたとき、鳴海の口はかってに動いていた。(喫わないんですか)、と。
 吸殻を人差し指と親指ではさんだ。彼がそうしていたように。でも、鳴海は煙草に火をつけることが、できなかった。ライターを持っていないから。
「綾瀬さん」
 鳴海を呼ぶ声に、指にはさんだ吸殻を投げるようにして灰皿に放った。なにかとてつもない禁忌を自分はおかしつつあった、そう思い、なぜか頬が紅潮した。
「あ、有田さん」
 老婦人だった。
「午後の診察は終わったのね」
「はい」
「そう」
 老婦人は生成りの薄いセーターを着ていた。もうそんな季節でもないのに、老婦人は少し、寒そうだ。
「有田さんは、これから」
「ええそう。河東先生、いるのかしらね」
「さあ」
「稲村先生は、元気?」
「ええ、たぶん」
「たぶん?」
「ええ、元気です」
 老婦人は鳴海よりもかなり背が低い。だから、立ったまま話す老婦人に見下ろされている気がしない。
「あなたも、元気そうで」
 老婦人の胸のポケットには、眼鏡。これから編物でもはじめようか、そんな風情。鳴海はしまいこんだ絵本を思い出す。ああ、だめ。
「おや、あのひとは帰ってしまったのね」
「あのひと?」
「その吸殻。あのひとのでしょう」
「白石さんですか」
「名前を知っているのね。そう、お昼は一緒だったのよね」
 言葉で答えず、うなずくだけ。
「あのひと、ずいぶんよくしゃべるわ」
「話をしたこと、あるんですか。白石さんと」
「鏡のことをね」
「鏡?」
 訊き返すと、老婦人は鳴海のとなりに腰をおろした。午後のけだるいお茶会に出席するように。
「綾瀬さんは、鏡を見ますか」
 老婦人はひざの上で指を組み、窓の向こうの中庭を向く。
「あまり」
「そう。でも、鏡を見たことはあるんでしょ」
「あります」
「わたしも手鏡しか持っていないけど」
 一呼吸。
「洗面所でしか、鏡は見ません」
 鳴海も一呼吸。そして老婦人と同じく、中庭を向いた。緑の絨毯、光のカーテン。
「あのひとは、ここに住みたいと、わたしに言ったの」
「白石さんがですか」
「ええ、そう。いえ、ちょっと違うかな。『僕はここにいてはいけない人間なのか』、白石さんはそうわたしに言ったわ」
 窓を開けたい、風に波立つ芝生を見、鳴海は思った。
「外来の人なんて、もう何年も見ていなかったわ。そうね、あなたがここに来たときはもう、外来の受付はしてなかったわ。白石さんは、だから久しぶりの外の人。わたしは正直驚きました。外の人と、ここの、<施設>の人の顔がずいぶんと違っていたらからね」
 鳴海は老婦人を向く。すると老婦人も鳴海を向いた。まるで、鳴海の視線を感じることができるかのように。このひとなら、感じられるのかもしれない。
「白石さんからは、雑多な匂いがしました。そして、迷っていた。いえ、まだ迷っているんでしょうね。視点が定まらないみたいに、きょろきょろして。そんなとき、自分がいったいどんな顔をしているのかって、気になることもあるんです」
「それで、鏡ですか」
「そう。けれど、白石さんにはそういう言い方はしなかったの。あのひとは、わたしたちと<街>のひとたちと、いったいどこがちがうのかって、そう言っていたわ。だから、わたしたちはおたがいが鏡なんですよって言ったの」
「おたがいが、鏡?」
 老婦人と向き合う鳴海。それが、おたがいの鏡?
「わたしはずっと、あなたが生まれる前から、ここにいる。ずっとここに。もう<街>に最後に行ったのがいつなのか、わからないくらい昔から。するとね、自分の顔がどんな顔をしているのか、ときどきわからなくなってしまうの。そう、自分の顔は忘れないわ。けれど、『どんな顔』をしていたのか、わからなくなるの。綾瀬さんはどうかしら、あなた、どんな顔をしているのか、知っていますか?」
 柔和な笑顔。春の陽のような。でも、鳴海はしばらく、春の陽の下を歩いたことがなかった。
「ここにいるとね、自分の顔がわからなくなるの。どんな顔をしているのか。綾瀬さんがどんな顔をしているのか、西さんや芹沢さん、稲村先生がどんな顔をしているのか、わからなくなるの。ここにいる人たちは、みんな同じ顔をしているからね」
 歳を経て落ち着いた、老婦人の声音。しわがれているのに、みずみずしい。角がとれた、円い音。
「白石さんは、ひさしぶりにきた外の人だわ。はじめてあのひとに会ったとき、すぐに外来の患者さんだとわかったもの。いいえ、ここの人たち全員の顔をわたしは知っているけれど、そういう意味ではなくて、ここの人たちとは、色がちがうのね。目の色が。だからわかったわ。それが、鏡」
「鏡……」
 鳴海は視線を中庭にもどした。まだ日は高い、夏至が間近の白い陽だ。
「鳴海さん、あなたは自分の顔が見えるかしら」
 老婦人は、あたかも空を見上げてまぶしさに目を細めるようにして、鳴海の応えを待つ。澄んだ瞳は、幼い日に家族で訪れた森の奥の湖の水面のようだ。水面は輝き、陽や湖岸の風景を映しこむ。しかしときに、うっと深い水底が垣間見えることがある。ずっと底の、ほんらい見えるはずもない水底が。鳴海は思う。人の瞳は、湖だ、と。どれほどの水がその中にたたえられているのだろう。水は澄んでいるだろうか、魚たちはいるだろうか。一見澄んだ水も、はたして飲めるかどうか、身を湖水に浸してその底へ向かってもぐることができるのだろうか。
 もぐる?
 鳴海は老婦人のたたえる湖水の、その奥底をのぞきこもうとしていることに驚き、あわてて視線をはずした。探っちゃだめだ、見ちゃいけない。「見えて」しまう!
「なんだかおかしな話になってしまったわね」
 老婦人は苦笑した。しかし鳴海は笑顔を作らなかった。作り笑いのやり方を、そういえば自分は知らない。
「河東先生、まだお部屋にいるのかしらね」
 老婦人は時計も見ず、歌うように言う。
「何時の、約束なんですか」
 時計を見やって、鳴海が訊く。
「二時半よ」
「もう、過ぎてますね」
「過ぎてますね」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介