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夏の扉

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 翔太は怜には答えず、少女に呼びかける。助けをもとめた風ではない、彼は壁にかけられた時計を指さした。
「あ、もう行かなきゃ」
 沙耶香と呼ばれた少女は翔太の指した時計を見るや、すっと立ち上がって怜の前を横切った。彼女に続いて、翔太。
 子どもたちふたりは怜の姿などもうまったく目に入らないかのごとく、すばしっこく花園を出て行った。足音も残さずに。ひとり花園に残された怜は、しばらくは妖精たちが消えていったドアを向いていたが、やがて感情の隙間からこぼれた苦笑を左手で拾った。怜は遅れて、子どもたちのあとを追った。温度がゆっくり上がっていく。首筋に汗、最後のドアを抜ければ、そこは怜が知っている世界だ。風車が回っている、<施設>の屋上だ。そこもまた自分の世界ではなかったけれど、知っている世界ではあった。そして、屋上からは<街>が見える。
 自分の、世界が。
 最後のドアを開けたとき、背中を押すように温室の空気が吹きでていった。甘い香りも、草いきれも、耳やうなじや頬をなでつけて、外の世界に向かって吹きでていった。
 怜は階段室の壁にもたれて、こっそり、トマトをかじった。赤い果実。力強い赤い色が、怜の身体にとけこんでいくようだ。左手を太陽にかざしてみる。紅い。しかし怜はそれが自分の血の色などではないことを知っている。夕焼けと同じだ、波長の長い赤だけが網膜に届いているから、だから赤いんだ。
 ふたくちめにかじったトマトは、ひとくちめよりも味が薄かった。
 屋上を見わたしても、もう子どもたちふたりの姿はなかった。


   三三、待合室

 診察室を出ると、秒針が時を刻む音が耳についた。アナログ式の無愛想な時計で、二階の談話室にあるものと同じ。中庭から差し込む日差しはまだ明るく、人気のない待合室を陰陽にくっきりわけていた。鳴海は一時間のカウンセリングを終え、ひとり時計を見上げた。午後二時。静かな午後だった。
 くるりと首を回す。中庭と、エントランス。<施設>の建物は、光のなかにぽっかりとできたトンネルだ。昼間はめったに蛍光灯が点灯しない。受付の事務員が照明を管理しているが、よほど昏い午後でもないかぎり、事務員が蛍光灯のスイッチを入れることはなかった。
 時を刻む音と事務員がキーをたたく音が同期する。鳴海の記憶がふと、逆回転をはじめた。高等教育課程、十七歳、放課後、曇り空の図書室。鳴海は友達が少なかった。自らを疎外していた。<施設>の受付は、司書教諭があくびをかみ殺しているカウンターにはやがわりだ。
 わたしは嫌われていた。
 きっとそうだ。クラスメイトが話しかけてきても、たいがいは無視した。無視しなければ、必要以上の言葉を用意しなかった。それが自分を守るすべだったからだ。誰かと親密になることが、たえられなかった。誰かの笑顔が鳴海のフィルムに焼きつけられたとき、すでに最後のコマが鳴海には見えていた。「終わり」が「見えて」いた。
 嫌われるのはつらくはなかった。むしろ嫌われるのを望んでいた。そうすれば鳴海自身が誰かの「登場人物」になる心配がない。もちろん、鳴海の中の「登場人物」に誰かがくわわることもない。すすんで嫌われようとしていたわけではなかったが、すすんで誰かに好かれようとしたこともなかった。
 窓の向こうの中庭と、エントランスの向こうでは色が違って見える。中庭は<施設>の敷地だ。世界はまだ続いている。しかしエントランスの向こうは、もう世界が違う。果ては見えない。昏い待合室から、鳴海は外を見ていた。中庭ではない、エントランスの向こうだ。
 ここに来てから、五年。いや、まだ五年はたっていない。四年と数ヶ月。はじめて<施設>を訪れてエントランスをくぐったのは、冬だった。降っては融け、けして積もろうとしない雪が舞う、十二月だった。身のまわりの荷物をつめこんだかばんひとつで、ここに来た。寒かった。ここまで送ってくれたのは、父だった。父の運転する車で街を抜け、荒地を突っ切る港湾道路を走った。等間隔で並んだナトリウムランプは、ところどころで点滅し、そうでなければ最初から消えていた。やがて助手席に座った鳴海の目に、白い壁の建物が見えた。それが<施設>だった。怜が「空色に染まった」と言った風車を、鳴海は車の中からずっと見ていた。家を出たのは、まだ夜が明けきらない朝。アスファルトに霜が降り、スパンコールのようにきらめいていたのを、よくおぼえている。父とふたりで軽い朝食をとり、無言で家を出た。桜の木は枝を寒風に震わせていて、ものがなしい音がしていた。ドアに鍵をかけるとき、父は薬を飲むのを忘れたと言って、車に電源を入れてからいったん家にもどった。鳴海は玄関にひとり、残された。玄関先の街灯は水銀灯で、もう何年も消えたままだった。そう、発電所の事故以来、街はずっと暗くなり、そして夜空が明るくなった。
 父は五分もたたないうちにもどってきた。娘が日に三回飲むのは、トランキライザー。しかし父が飲むのは、発電所の後遺症を治療する薬だ。父は「その日」、たまたま発電所の近くにいた。母と一緒に。久しぶりの休日、母と二人、海を見に出かけた。そして事故に遭遇した。兄と自分は学校にいて、無事だった。
 父は治療に週三日は通院していたが、病をおして、娘を送ってくれた。母の後遺症は気まぐれで、<施設>に似た療養所で過ごしていた。ふたりとも命にかかわるような病気ではない。でも、もう昔のふたりではない。鳴海には「見えて」いた。ふたりの「終わり」が。ほんとうは<施設>に入院することを、鳴海は望んでいた。両親の姿を見たくなかったからだ。祖母もまた母とは異なる療養所へ、兄は空軍の航空学校へ。そして自分もまた、<施設>へ。家に住むのはとうとう父ひとりになってしまった。家をはなれるとき、鳴海は助手席からちらりと、父にさとられないくらいさりげなく、そっと家を振り返った。壁はくすんでいた。壁に寄りそって止まっているのは、兄の自転車だ。思い出だけが、忘れ物。もう取りにもどることもない忘れ物だ。
 火山灰が薄くのった国道を走り、父の向こうから太陽が昇るのを見た。ふたりともなにもしゃべらなかった。父はただだまって、ステアリングを握っていた。足元から響くモーターの振動と、風切り音。強制執行がかけられ住む人のいなくなった街を抜けて、すっかり日が昇ったころに<施設>についた。車を降り、鳴海は潮の匂いをかいだ。<施設>からは稲村が出迎えてくれた。抑えた笑顔だった。
 あの日のことを鮮明に記憶していたことに、鳴海は驚いた。
 エントランスの向こうは、もう夏だった。けれど鳴海が立つ待合室は、あの日とちっとも変わっていないように思えた。
 入院手続きを終えて、鳴海は正式に<施設>の人間になった。そして夕方、父はひとりで車に乗りこみ、帰っていった。誰もいない、自宅へ。鳴海はエントランスから出ることもなく、父を見送った。テールランプが夕焼けにまぎれるまで、見送った。寂しさは感じなかった。でも稲村が鳴海を呼ぶまで、ずっとエントランスに立って父の車が消えた夕焼け空を眺めていた。
 鳴海はそっと、待合室の長椅子に腰かけた。ほんのりと暖かかった。
 目の前の灰皿に、吸殻が一本。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介