夏の扉
女の子が一歩出て、怜の右手の鋏をとる。そして、無造作にトマトの枝に鋏を入れた。小さな手のひらには大きすぎる果実を、彼女は胸に抱く。その拍子に女の子の手から鋏が落ちた。コンクリートの床に金属音が鋭い。怜は男の子に赤い柄の鋏をさしだした。無言で受けとる。
「はい、あげるわ」
両手に赤い果実を持ち、それを怜に。女の子の瞳はひどく澄んでいた。あの嵐の日、真琴のオルガンにあわせて歌っていた子どもたちの、そのひとりだろうか。
「ありがとう」
怜はトマトを受けとる。まだトマトの体温は冷たい。
「じゃあね」
女の子はすたすたと、温室のさらに奥へと進んでいく。あとを追って男の子が早足で。子どもたちの足音が聞こえない。怜は立ち上がり、手のひらのトマトを見つめる。
作ったものだっていいじゃないか、それにしてもなんて色だろう。
怜の耳に、明日香の言葉が聞こえる。
(『赤い色ってどんな色?』って訊かれるのとおんなじ。説明のしようがないわ。わたしが『りんごの色』って答えても、それは答えじゃない)
いま怜の手のひらにあるのはりんごではなく、トマトだ。けれど関係ない、このトマトは赤い。紅い。生きているものだけが出せる、紅だ。
子どもたち二人はもう隣のブロックに行ってしまった。怜はトマトを手に、二人の消えたドアに歩き出す。
空は青いはずなのに、この空間では色を感じない。空は見えなかった。格子にくぎられた透明な天蓋は、うっすらとくすんでいる。怜は茂る植物たちの袖口に腕をつっこむようにして、外界と遮断しているその透明な存在に触れてみた。ガラスによく似ていたが、これはちがう。そもそもこの天蓋すべてがガラスだとしたら、これだけの荷重を華奢なフレームがささえきれるはずがない。ポリカーボネイトか、そのあたりの柔軟性があり、しかも強靭な材質だ。嵐にもたえられ、しかも軽い。
うなるサーモスタットの作動音が、こころもち耳障りだった。怜はコンクリートを踏みしめて、子どもたちが向かった扉を開いた。そっと。自分はこの世界の住人ではないのだ。
扉が開く。怜は、息をのんだ。向こう側に広がった世界は、あまりに色彩に富んでいたからだ。赤、黄色、青、空色、パープル、そしてさまざまな緑。土のない花畑だった。少女はかがみこみ、紅く染まったヒナゲシの花弁をなでていた。少年は配電盤にとりついてスイッチを点検していた。花園の守は、彼らか。それにしてもずいぶんとコンピュータライズされた妖精たちではないか。怜は背筋にぞくりとしたものを感じ、それ以上足を踏み出せなかった。
少女は片手にミルクの空き瓶を持っていた。稲村のデスクに載っていた可憐な花束は、彼女たちが運んでいたのか。何もかもが作られていた。ここは外界と完全に遮断されている。明日香や真琴、そして鳴海たちの顔がよぎるが、むしろ怜は花園の守の二人がより、現実とずいぶん乖離して見えてしかたがなかった。
「お花が欲しい?」
少女は招かれざる客人を向かず、そっとミルクの空き瓶を足元に置いた。少年が彼女に、トマトをもいだあの鋏を手渡した。少女はためらいもなく、一輪のヒナゲシを手折る。きっと彼女なら、笑いながらトンボの羽をむしってみせるだろう。怜が幼いころにしたときのように。意識しない凄惨。
「君たちが、育てているのかい」
自分の声が妙に遠くから聞こえてきた。
「うん」
少女が応える。少年が表情もなく、じっと怜を向いている。秘密の花園の姫君を守る、彼はまさに衛視の顔をしていた。
「ずいぶん、多い」
温室は外から見たよりもずっと広い。おそらく<施設>の屋上、三分の一以上は温室が占めているのだろう。なかでもこの花園は、いままで通ってきた二つの区画を足したほどの広さがあった。ここで温室は行き止まりだ。出口はたったひとつ、いま怜が開いた扉だけだ。
「きれいだと思う?」
「ひさしぶりに見たよ」
怜はそっとかがむ。ヘリオトロープが小さな花弁をたわわに実らせていた。季節が、ここにはない。
「トマトは、おいしかった?」
「まだ、食べていないよ」
「どうして?」
「もったいないよ」
怜が言うと、少女は少し笑ったようだった。
「腐るわ」
彼女の言葉は、あまりにも鋭すぎる。歳に似合わない、まるで、引き金を引けば誰かを傷つけてしまうのに、そのことに気づかず銃を手にしている子どものように。
「腐る前に、食べるよ」
「それがいいと思う」
怜は右手のトマトに視線を落とす。頭頂部からうっすらと縞が浮いている。堅く実がつまり、重い。昼食のサラダのプレートにあったスライストマトは、確かにおいしかった。それが、これか。
風の吹かない花園で、ふたりの子どもとひとりの大人。怜は首をめぐらし色とりどりに咲き乱れる花々を数えた。名前などはわからない。なじみのある花は、少なかった。ヒナゲシの赤のとなりでタンポポがけなげに咲いているのがすこぶる奇妙だった。まざりあう花々の香りは強烈で、しかし不思議と不快ではない。どれも香りが穏やかなのだ。それぞれはたがいに自己主張していないのだ。紫のラヴェンダーが花をつけているのに、だ。
「ここには、君たち以外は誰もこないのかい」
立ち上がるとふっと、視界がかすむ。貧血か、毎日<施設>と同じ食事をしているわけではない。タブレットに頼らなければ、三日と生きていけないのが怜の生活だ。
「当番」
少女が答える。怜を見ようともしなかった。
「当番か」
「うん。今週は、わたしたち」
「稲村先生も来るのかい?」
「こない」
「僕と同じくらいの歳の、綾瀬さんだとか、西さんはきたことがあるのかな」
「誰?」
「わからない?」
意外だ。閉ざされた<施設>では全員が顔見知りなのではないのか。明日香は言っていた。ここでは全員を知っていると。
「名前を言われても、わかんない」
「色の白い、女の子だよ。背の高い」
「翔太君、わかる?」
少女は振り向き、少年に訊いた。翔太と呼ばれた彼は、首を横にふった。
「大人はこないわ」
そう言って、少女はまた花弁を愛ではじめる。
「君たちだけでここを世話しているのかい」
「そうよ」
「大変だね」
少女と怜の距離は縮まらない。遠かった。
「ううん、ぜんぜん」
「そうなのかい」
「放っておいても、花は咲くもの。花より、キャベツやトマトのほうが、大変よ」
細い首、骨格を感じない、幼い少女。しかし口調だけは、あんがい真琴より大人びている。それがちぐはぐで怜は居心地が悪い。
「僕は野菜を育てたことがないから、わからないんだ」
「花は咲くだけだけれど、野菜は集めなきゃいけないもの」
「実がなったらかい」
「うん」
実がなるまでは放っておいても育つというのだろうか。ずいぶんと便利だ。それでは工場だ。
「ここが好きなのかい」
一株一株、ていねいというよりパラノイアのような視線で世話を続ける少女に、怜は問うた。少女は手を一瞬止めた。止めて、怜を向く。まっすぐ、円く大きな瞳が怜を向く。そして、首をかしげた。動作、と呼ぶほかはない、少女のしぐさ。
「君は」
怜は翔太を向いて訊いた。
「沙耶香ちゃん……」