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夏の扉

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「幸運にも、いや、不運にもかな、僕は休職中だから、いつでも時間はあるんだ。一人で行くのも二人で行くのもかわらない。行く気になったらさそってくれればいいです。IDは持ってないけど、小さいころと同じで、抜け穴はいくらでもあるよ。僕はこれでも環境調査員だ」
「休職中でしょ」
 明日香が返す。
「関係ないよ」
 怜はからりと笑って返してみせた。


   三二、赤い果実

 季節の境界がはっきりしなくなっている。しかし怜にはそれがあたりまえだった。暖かい冬も寒い夏も、上陸するたびに街がひとつ吹き飛んでしまうほどの台風も、すべてがあたりまえだった。
 怜は<施設>の屋上にいた。風車と同じ、西を向いて。中庭を見おろし、煙草を喫っていた。
 正確には風車は北西の方角を向いている。石狩湾からの海風を全身に受け止め、三枚のプロペラを回すためだ。怜にとってのそよ風でも、プロペラはゆっくりゆっくり、しかし確実に回転していた。
 煙草をくわえたまま、振り返る。市の南東の原生林が広がる丘一帯に、市の電力の三分の一もまかなう風力発電所がある。無数の風車が並んで回るさまは、まるで突然変異で生まれた植物の群生を思わせる。そう、<施設>の屋上からも見えるのだ。
 灯るために灯る街灯がめずらしくなかった時代を、怜は知らない。原子力発電所が海中に没して、この街の明かりは消えた。全面復旧は困難を極め、特定の発電所が街の電力を一手に供給することは不可能になった。前世紀に発明された水素による燃料電池が、いっきに普及したのはそのためだ。
 いまさら、と怜は思う。
 こんな世界ににしておいて、いまさらなにを。
 誰を笑えばいいのか、しかし自然に怜の口元には笑みがこぼれてしまった。
 風切り音。怜はコンクリートの屋上に座り込む。そして、思い出す。あの日、同僚に、上司にはがいじめにされて転がった、あの職場の屋上を、頬に押し付けられたコンクリートの感触を。
 雲を数えてみる。日差しが強烈だ。明日香が見たという雲なら怜も知っている。厚化粧の中身は最悪なのに、遠目にはひどく美しく見えるのだ。明日香も自分がそうしたように、コンクリートの屋上に立ち、なすすべもなく空を見上げていたのだろうか。
 ぶらりと歩く。<施設>の屋上はあんがい広い。風車の基礎は建物を貫通しているのだろうか、太く、頼もしい。手のひらで触れると、冷たかった。
 階段室の向こうへまわる。こういった建物の屋上につきものの給水塔がない。このあたりの地下水など飲めないはずだ、すでに地面の下は海なのだ。高性能の浄水器は電気をばか食いするが、たった三基の風力発電でそれがまかなえているとは思えなかった。光発電も併用しているのだろうか。実用化当時のような、紺色をした太陽発電パネルとちがって、現在は透明でガラスと区別がつかない。下手をすればこの<施設>すべての窓ガラスが光発電パネルの可能性もある。
 四角いコンクリートの箱、それが階段室だ。その裏側。怜は歩みを止める。鉱石にたとえれば、石英、その塊。
 温室だった。それだけで鳴海の部屋の倍以上の広さがある、ガラス張りの温室だ。このあいだの嵐でも傷ひとつないのだから、ガラスではないのかもしれない。このさい材質はどうでもいい、<施設>の屋上に温室があることに、怜は少なからず驚いていた。中は入らずともわかる、植物がびっしりと生い茂っているのだ、ガラスが緑色のステンドグラスのようだ。ところどころは赤や黄色。
 怜はためらいがちにドアに手をかけた。環境省の施設にあった巨大な温室に入るためには、二重のエアロックを通らなければならなかった。でもここの温室にはそんなものはない。ドアをあければ直接入れる。鍵がかけられた様子もないし、そもそもドアノブに鍵穴がない。
 怜はドアを開けた。
 むっとする草いきれ、花の匂い。そこはもう真夏だった。サーモスタットのうなりが耳の奥に届く。
 温室は外から見たよりも狭いと感じたが、それは全体をいくつかのブロックに分けているからだ。うっすらと額に汗が浮かぶ。
 温室効果か、そのとおりだな。
 見ると、ここの植物たちは土とともにはなかった。水耕栽培だ。このあたりで汚染のない土を探すことが難しかったのか、いや、いまではどこでも同じだ。だから農業はいま、水とともにあった。そして、生物学者たちと。
 温度計を見るとそれほど室温はあがっていなかった。ただ緑の空気に、怜は圧倒されていたのだ。これは、レモンの樹か。
 怜は進む。ふたつめのドアを、そして開く。
 ふたつめのドアの向こうは、空気が冷たかった。栽培されているのは、大きな花のようなキャベツ、枝に重そうなトマト、水中に実るジャガイモたち。ここの食糧はここで作られているのか。すると自給自足なのだろうか。怜はしゃがみこみ、産毛がびっしりと生えたトマトの枝をなでた。そして、ずっしりとした果実を手のひらにのせてみた。赤く熟れてはいたけれど、堅かった。
 怜はそのとき、手のひらのトマトを口に運びたい衝動にかられた。赤く、重く、熟れたトマトを。ここでの昼食以外に怜はめったに野菜を食べない。もともと食欲というものが希薄なのだ。ほぼ義務感でシリアルを食べ、あとはいくつかのタブレットでおしまいだ。それで十分だった。なのにいま、怜は赤く熟れたトマトを枝からもぎ取り、かじりつきたかった。
 作られたものではなかった。作ったものだ。自然ではなくて、不自然だった。ほんらいこんな場所で育つはずもない。海の上にのった地面に、さらにコンクリートがのり、そしてコンクリートの上にたまった水溜りに、緑が茂っていた。
 怜は開いていた指を閉じ、トマトをやさしくつかむ。トマトの体温が、怜の体温を奪っていく。あと少し力をくわえれば、少しひねれば、トマトは枝をはなれる。そして怜の手のひらに。
「食べてもいいよ」
 背後から聞こえた声に、怜はすんでのところでトマトから手をはなした。
 子どもだった。
 歳は、五、六歳か。男の子と女の子。手をつなぎ、怜のすぐ後ろに立っていた。いつ温室に入ってきたのか、それともずっと温室にいたのか、怜は気がつかなかった。
「あ……」
「食べてもいいよ、お兄さん」
 女の子が言う。幼い声、しかし大人びた口調。背伸びをしているわけではない、この子が身につけてしまった、それは生来のものではない性格。
「はい」
 赤い柄の鋏を、男の子が手渡す。怜は反射的に鋏を受けとっていた。
「いいよ、食べても」
 女の子が重ねて言う。しっかりと怜の目を見つめて。子ども独特の、大きな瞳で。眉の上でそろえられた前髪と、背中にたれた黒い髪は、そう、人形のようだった。あの夜に水路にたたずんでいた鳴海が自動人形なら、この子たちはサイドボードやいすの上に座ったかわいらしい人形だ。
「ありがとう……。ほんとうにいいのかな」
 怜は無理に笑顔をつくってそう訊いた。
「いいよ、食べても」
 それでも怜はトマトの枝に鋏を入れるのをためらった。しゃがんでいる足がつらい。
「貸して」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介