夏の扉
電停の上空を、カモメが風に乗って旋回していた。電車は一時間に一本もやってこない。怜はプラットホームに腰を下ろした。時刻表のポールの根元に、錆びた赤い空缶が転がっている。人の作ったもの。その大半は、分解されずに波打ち際を漂うことになる。赤い錆だらけの缶が、浅い湿地を漂う姿がいやにはっきりと目に浮かぶ。怜はそのイメージをあわててふりはらう。目線を海とは逆、人の住む街の方向へ、山沿いの自宅の方へと向ける。斜面に乱杭歯のように高層住宅が並んでいるのが見える。低地に住む人たちは、強制執行でそれまでの土地を離れ、市の西から南にかけての斜面に建設された高層住宅に移住させられた。怜の住むアパートも、そういった高層住宅の一室だ。旧市街は少なくとも彼が老い、永遠の眠りにつくまでには水没してしまうだろう。
見上げるとカモメはどこかへもう飛び去ってしまったようだ。斥候か。数年後の自分たちのテリトリーを下調べに来たのか。
腕時計で時刻の確認。調査員時代の癖がぬけない。時間ごと、データ収集を要求されたからだ。コンピュータ・ネットはとっくの昔に消滅してしまった。電力の安定供給に陰りがみえはじめたころ、誰もがコンピュータを信頼しなくなってしまったからだ。市から西へ数十キロ、市が電力の大半を依存していた原子力発電所は、環境変化に敏感だった。海岸線に建っていたからだ。真っ先に海中のモニュメントと化し、放射能を撒き散らしはじめた。怜は防護服に身を固め、ガイガーカウンターを持たされ、数年前までの砂浜を歩かされたこともあった。もう、うんざりだ。
流行病。
いつの時代にも、人が根絶を願っても、あとからあとから流行病は姿をあらわす。
流行病。
一言で片づけるのは簡単だ。発達した医療技術の前に、病はあっというまに、塩基配列のひとつひとつにいたるまで解明され、殺戮される。そして人は晴れやかに復帰する。
北緯四三度の街の暖かい冬がはじまりかけた頃、彼は流行病にかかった。この国だけでなく、海の向こうのいくつもの国々で流行りはじめた病だった。だが発達した医療技術も、病を解明し、根絶することはできなかった。その病は感染ルートもはっきりせず、しかも塩基配列などという気の利いたものも持っていなかったからだ。
心の病だった。
この流行病は心をだめにした。正確には「流行病」ではないのかもしれない。しかし今、全世界に病は蔓延しつつある。病は怜のような、変化の最前線にいる者からまず狙い撃ちにした。倦怠感、不安、恐怖、絶望、諦観、そして、死。直接死にいたる病ではない。かかった者が、自ら死を選ぶのだ。怜の発病を知った上司は、医師の診察をすすめた。上司はすでに同僚を病で喪っていたからだ。怜はすすめられるまま診察室のドアを叩いた。おかしな気分だった。自覚症状などまったくない。ただ、感じるだけなのだ。絶望、を。
最初訪れた病院の廊下は、瞬く蛍光灯の下に青白い顔をした人々がうつむき、ある者は足を組み、若いカップルは寄りそって中空に視線を泳がせていた。時折誰のものともつかないため息、そして背筋を凍らせるような嬌声が響く。医師の前に座った怜は、とおりいっぺんの質問のあと、何十問にもおよぶ心理テストを施された。つぎに、何枚もモノクロで描かれた絵画を見せられ、印象や感想を質問された。絵の具をこぼした染みのような、意味不明なイラストも見せられ、これにも感想を問われた。診察が終わると、何種類もの錠剤が入った袋を渡される。食後、必ず飲んでくださいね。怜は言われるまま、薬を飲んだ。それでも医師は怜を通院から解放してはくれなかった。自分はかりに病だとしても、ずっと軽度だと思い込んでいたのに。
通院しつつも、怜は仕事を続けた。毎朝七時に目覚め、シリアルとミルクの軽い朝食をとり、部屋の鍵を閉めて地下鉄に乗る。パターン化された生活、パターン化された絶望。気がつけば感情を失いかけていた。調査員の同僚と海岸線を歩きながら、観測機を放り投げて絶叫している自分を、どこか離れた場所から眺めていたこともあった。倒れた湿地の、苦味と潮の混ざった、複雑でまずい味だけがあとに残った。怜はフィールドワークから事務職に異動になった。慣れないデスクワーク、度重なる停電、瞬く蛍光灯、希望のかけらもないデータの集計と、青白い顔をした職員たち。ある日、怜はふらりとビルディングの屋上に立っていた。旧市街中央に位置する彼の職場からは、まだ海は遠かった。しかし見ると低地からは日に日に人の生活が消えていく。地平はかすかに丸みを帯びていて、その先がぼんやりと青かった。ああ、海だ、海が見える。思えば彼は屋上のフェンスから身を乗り出していたのだろう。彼の姿を探していた同僚に羽交い締めにされ、コンクリートの床に転がった。そして、怜は環境調査員の職を解かれた。馘首ではなく、休職扱いで。それからは、自室で好きな音楽を聴いたり、いつか読んだ小説を読み返したり、そうでなければ呆けたように一日を過ごし、週に二回は通院。そして早すぎる春が訪れた頃、担当医が紹介状を書いた。白石さん、あなたはここへ行くといい。きっとよくしてくれる。行っておいで。
日差しを受ける背中が暖かい。こんな一日も悪くない。
怜は白壁の<施設>を思い起こしていた。つい十五分前にあとにしたばかりの、二階建ての<施設>を。
磨かれた床、瞬かない蛍光灯、待合室の隅に置いてあった灰皿、よく手入れされた中庭、子どもたちの歌声。すべてはもうとっくになくしてしまった風景に思われた。ひんやりとして無愛想な建物だったのに、それゆえか、怜にとっては居心地がよかった。小一時間、自分の支離滅裂な話につきあってくれた、あの稲村とかいう医師の顔を思い起こす。何を話しても、目は赤ん坊を抱く父親のように穏やかだった。どんな会話をしたのかはもうよく憶えていない。なのに稲村の顔と机上の花瓶に生けてあった、黄色いタンポポの束が、鮮明に思い出された。病院という気がしない。卒業後、久しぶりに訪れた母校で、恩師と言葉を交わしてきたかのような気分だった。
白い肌。
怜はポケットから煙草を取りだし、火をつける。錆びた空缶を灰皿代わりに。吐き出した煙は、吐き出したかたちのままで風に乗る。
少女の白い肌が浮かぶ。黒い髪を肩まで伸ばし、顔からは一切の表情が欠落して見えた。彼女もまた、自分と同じ病にかかっているのか。だとしたら、自分たちは何と残酷なことをしたのだろう。
喫わないんですか。禁煙じゃないですから。
わかってるさ、だけど、ちょっとびっくりしているんだ。灰皿を俺の部屋以外で見かけるのなんて、何年ぶりか分からないからね。ありがとう。
澄んだ、しかし色の見えない瞳が、じっと彼を見つめていた。
この時間で二本目なんて、少し喫いすぎだな。
怜は根元までじっくりと煙草を灰にした。赤い缶の中へ吸い殻を落とすと、じゅっと音をたてた。水が残っていたのか。しかし彼は水の色を想像したくはなかった。
レールがかすかに鳴っている。帰りの電車だ。怜は立ち上がり、一直線に伸びる港湾道路の彼方から、パンタグラフが揺らめきながら近づくのを、目を細めて迎えた。
四、南の終着