夏の扉
「このあたりの海岸線は、ずっと閉鎖されてる。写真で見たほうがきれいだ。芹沢さんは?」
「ずっと小さいときに一度だけ、行ったことがあるみたいです。でも、わたしは覚えていない」
「鳴海さんは」
「……海って、わたし、知りません」
「知らない」
「行ったことがないから。湖になら」
「湖と海では、ずいぶんちがう。見てみたいとは思いますか」
鳴海は怜から視線をはずす。そして、考える。
「どんなところですか」
言うと怜はちょっと笑った。
「いいところじゃないですよ。あなたのお兄さんの絵のほうが、ずっときれいだ。砂浜なんて、もうずっと見たことがない。けれど、夏の海は、いまもきれいだと思いますよ」
「さっきは海は嫌いだって言ったでしょ」
明日香が割りこむ。
「嫌いです。仕事で歩いた海はね。あれは海じゃなかった。海水が流れこんだ、ただの捨てられた街だった」
「どうちがうの?」
「海に、人は住めないでしょ」
「それが?」
「海岸線じゃない、ただのっぺりとしただけのね、『海』はほんとうは嫌いじゃないかもしれない。けれど僕はしっかりと見たことはないんだ」
「……見たことがない?」
明日香が不思議そうな表情で訊きかえした。
「環境調査員なのに、海を見たことがないの?」
「海岸線をただ歩いていただけだからね。海岸線といったって、昔みたいに、一度地図が描かれたらもう何十年も描きかえられないようなものじゃない。三ヶ月にいちどは描きかえられる。そんな場所を、重たいだけの観測機器と、防護服を着て歩くんだ。海なんか見えないよ。僕らが歩いていたのは、街の中なんだ。水没した街だよ、見たことがありますか?」
怜は明日香を向いて少し意地の悪そうな顔をした。明日香はただだまって首を振った。
「衛星写真なら、研究室にいっぱいあったわ」
「その写真のね、顕微鏡で見ないとわからないような、そう、海と陸の境界線を僕は歩いていたんだ。ひととおりの研修でいろいろと昔の写真も見たよ。人で埋まった砂浜、波がうちつける岩礁だとか、ね。そうだ、珊瑚礁の写真も見たよ。温暖化で全滅したそうだけれど。夏休みの海水浴場なんて、僕がもう知らない世界だった。海にあこがれるなんて、僕には理解できない。確かに小さいころの思い出なら、僕にもあるよ」
「白石さん、ずっと<街>に住んでいたわけじゃないんですか?」
発言のなかった真琴が、おずおずと、参観授業中に初めて挙手した初等科の生徒のように言った。
「地名を言ってわかるかな、僕は室蘭に住んでた」
鉄錆だらけの街。港をまたいでいた吊橋は、怜が中等部に上がる前に通行が禁止された。橋の強度の安全性に疑問符がついたからだ。
「港街でしょう」
と、明日香。片肘をついて、けだるそうに。怜はこきざみにうなずいた。ああ、そのとおりだよと、正解を答えた生徒をほめるように。
「僕はみなさんとたいして歳はちがわない。僕が小さいころ、もうすでに海岸線はあやふやになってた。海で泳ごうとするやつなんていなかった。危なかったからね、海の水は毒も同然だった。室蘭は工場が多かったから」
「講義で教わった。発電所の事故の回にね」
明日香は本当に学生だったのか。鳴海は彼女たちのことを知っているようでまったく知らなかった。そのことがはじめてわかった。そして、知ろうともしなかった自分の存在は、いま少し遠かった。
「高潮がなんども街を襲ったらしい。僕の家も高台に移ったよ、街をちょうど見下ろせるんだ」
「だったら、海も見えたでしょう」
もうすっかり、怜の言葉を受けるのは明日香だ。
「見えたんだろうね。でも、そのころの海といまの海はちがうような気がする。やさしくないんだ、いまの海は。冷たいわけでもなくて、僕らのことを完全に無視しているような気がするよ」
無視。言葉そのものが鳴海の頭に響く。意味だけが直接。
「だから、それを確かめてみたいって気もするんだ」
「確かめる? なにを?」
明日香が問う。
「……、昔はこんなことは思わなかった。けれど、いまみなさんと話していて思った。僕は本当に海が嫌いなのかってね。だから、それを確かめてみたいって思ったんだ」
鳴海は怜が海を見下ろす丘に立ち、無表情で水平線を望んでいる姿が見えた。「終わり」なのか、それともそうではないのか。唐突に数瞬、そんなイメージが降ってきた。そして、言葉が自発的に口をついた。
「それは、海を見に行くってことですか?」
鳴海の発言に、怜は驚いたようだった。かすかなとまどい、そして明日香を向いていた身体を鳴海になおった。
「自分でも意外だと思う。そんな気分になったことなんかなかったのにね。いま、本当の海はどんな顔をしているんだろうって、そう思ったんです」
わたしは、海を知らない。話で聞いたり、学校の授業で見た「海」を、わたしは見たことがない。空と海が水平線でひとつに溶ける、青さの異なる世界の境界だ。それを、知らない。
「わたしが学校で海のことを習ったとき、もう海岸線は閉鎖されてました。だから、わたしは海を見たことがないのかもしれない」
「鳴海さん、いくつだっけ?」
明日香の問いに鳴海はちょっと考えてから答える。
「二一歳」
「あ、わたしと同い年だっけ」
「そうなの?」
「わたしも、二一。真琴は、二二だっけ」
うなずく真琴。
「僕がいちばん年上なんですね。二四。そうか、鳴海さんが物心ついたときには、もう海岸線の封鎖は完了していたんだ。たった一、二年の差なのにね」
怜の歳は兄の歳とたいしてちがわなかった。
「白石さんは、その、夏休みの海水浴場って見たことがあるんですか?」
鳴海は稲村のことをしばし忘れることにした。
「ないよ」
怜はあっさりと答えた。
「ずっと小さいころは、海岸線で遊んでた。友達とね。もう<機構>が封鎖をはじめてたから、こっそりと抜け道を探して、海まで出てたんだ。工業都市だったから、封鎖は簡単だったと思うんだけど、抜け穴はけっこうあったんだ。いまみたいに軍まで出張ってきてなかったからね。発電所の事故よりも前だった」
「砂浜って、見たことないんですか?」
「写真でならあるよ。僕が生まれたころはもう、砂浜は海の底になってた」
「じゃあ、お兄ちゃんが見つけた砂浜って」
「ひょっしたら、綾瀬さんが想像で描いたのかも知れないし、ひょっとしたら、どこかにまだ残っているかもしれない」
水没した首都からそう遠くないところには、かつて有数の砂浜海岸があった。あるいはそのあたりにはまだ、砂浜が残っているのかもしれない。
「見てみたいんですか、海を」
怜の問いに、鳴海はすぐには答えられなかった。見たこともないものを、見てみたいかと訊かれても、わからなかった。
「ちょうど、もう夏だ。『夏休みの海水浴場』を探しに行きますか?」
そこで怜はにやりと笑ってみせた。
「わたしは、べつに興味はないわ。ここから出るのなんてごめんだもの」
明日香はいつもの調子で応えた。
「わたしも、遠慮します」
上目遣いに、真琴。
怜は鳴海の返事を待つ。