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夏の扉

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 怜を見れば、片肘をテーブルにのせ、あいづちをうつわけでもなく明日香の表情をうかがっているようだった。真琴は困惑していた。まるで怜と明日香がけんかをしていて、傍からどうにもできずに見守るだけのクラスメイトのように。
「大学にもどれたら、もどりたいとか、そうは思わない?」
 怜は低く、言う。その言い方は、幼い日の記憶にある誰かの声に驚くほど似ていた。声音が似ているわけではなかった。ただよう雰囲気が、ただ似ていた。
「白石さんは、環境省にもどりたい?」
 明日香は質問に質問で返す。彼女らしい。
「どうかな。でも、もどれるなら、もどるかもしれない」
 言葉が怜をはなれて意味をなし、それぞれの耳に届くころ、言葉の主は目をふせていた。ほんの一瞬だけ。
「楽な仕事じゃなかった。あの仕事をしていたから、僕はここに来るはめになったのかもしれない。けれども、もどれるなら、もどるかもしれない。あの職場は、やっぱり、自分の居場所だったような気がする」
「本当にそう思うの?」
 明日香の目は澄んでいる。瞳を透かして、直接記憶に怜の姿を焼きつけようとしている。
「さあ、どうかな」
「もどりたい? あなたがどんな仕事をしていたのかは知らないけれど」
「僕は環境調査員だ」
 なにか彼は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「いつだって、僕は最前線にいた。沈んでいく街や、放射能をまきちらして崩れていく発電所や、頭が二つもある水鳥や、そんなものばかり見てきた。そう、西さんが見たっていう雲だって、僕はいやっていうほど見てきたよ。同僚にはそのなかへ飛行機で飛んでいったやつもいる。正直、つらかった。稲村先生や綾瀬さんのお兄さんは、僕のことを<機構>の人間だと言ったけれど、……そう、兄さんはそう僕を呼んだんですよ。でも僕は仕事を続ければ続けるほど、<機構>が信じられなくなった」
 こんどは明日香がだまって話を聞く番だった。
「ここにはTVがないようだから、<機構>がいまどんなことを叫んでいるのか、知っている人は少ないと思う。西さんはラジオを持っているそうだけれど」
「気象情報しか聞かないわ。というより、国営放送の定時の気象情報しか電波をひろえないんだけど」
「それは正解なのかもしれないね。ラジオは音だけだから、画面は自分で想像するしかない。僕のように、最前線の映像を見る必要もない」
「かえっていやなことばかり想像しちゃうよ」
「実際に体験するわけじゃない。そこがちがいますよ。強制執行がかけられた地域は、環境省と軍が完璧に閉鎖してる。国営放送のクルーだって入れない。僕たち環境調査員を別としてね。だから、いまの本当の姿を知っている人は少ないんです。でも僕は知らないほうがいいと思った。知らなくてもいいことってけっこうあるでしょう。だからね」
 鳴海は壁の時計が気になる。そろそろ午後の診察がはじまってしまう。
「結局、なにを言いたいの? あなたは、もどりたいの?」
「西さんは、どうなんですか」
「わたしは、……もどれない」
「声が聞こえるから?」
 明日香はだまってうなずく。
「僕は見えないものが見えたりしたわけじゃなかった。見えるものはしっかりと見えていた。聞こえない音が聞こえたりもしなかった。聞こえるものはみんな聞こえた。いや、機械を使えば、本当に聞こえない音も聞こえた。音を見ることだってできた。そんな場所に、僕はかりにもどりたいと思っても、もどれるんだろうか」
 明日香はなにも言わない。真琴はじっと耳をかたむけている。
「わたしは、もどりたくてももどれない。あなたは、もどろうと思えばもどれる。ここはあなたの場所じゃない。そこが決定的にちがう」
 つきはなすような言い方。明日香に悪意はない。それが彼女のスタイルだから。
「芹沢さんも?」
 怜が訊ねると、真琴はとまどいがちにうなずいた。鳴海はなぜ真琴がもどれないのか、ここにとどまるしかないのか、その理由は知らない。オルガンを弾いている彼女の姿ばかりが目に浮かぶ。
「鳴海さん、あなたはどうですか」
「わたしも……ここからははなれられないと思う」
「ここなら、『終わり』が見えないんですか」
 鳴海はだまってうなずいた。うなずいたが、すぐに首を横に振った。うそだった。ここにいれば「終わり」が見えないなんてことはない。
「なににあきらめているんです?」
 身体は明日香を向いていたが、双眸はくっきりと鳴海をとらえていた。
「あきらめてる?」
 明日香が問うた。鳴海にではなく、怜に。「誰が?」
 怜は鳴海に視線を向けたまま、それが答えになる。
「こんなことを言っていいのかわからない。あなたのお兄さんは、ここのひとたちは『あきらめている』って、僕にそう言った」
「兄さん? 鳴海さんの?」
 怜を向いていた明日香の目も、鳴海をとらえた。鳴海は怜、明日香、四つの瞳の色をのぞきこむ。見つからないように、そっと。
「そう。お兄さんはそう言った。僕も、そう思った」
「わたしたちがあきらめてるってこと?」
 明日香が言う。声には力がない。疑問、問いかけ、自分に対して。はじめて投げかれられた質問であるかのように。
 怜は明日香の言葉にただ、無言。
「……お兄ちゃん」
 鳴海のつぶやき。口の中で、喉の奥で。そして胸の奥底で。
「僕は外からここへ通っている。<街>からね。だから、わかるんです。ここのひとたちは、そう、芹沢さんも西さんも、穏やかすぎるんです。時間の流れ方が<施設>と外ではちがうみたいだ。電車に乗ってから終点までが、ずいぶん遠く感じる。ほんとうはたいした距離でもないのにね。このへん一帯は強制執行がかけられているから、誰ひとり住んでない。どうして<施設>だけが<機構>に見逃されてるのか僕はわからないけれど、地下鉄から市電に乗り換えてここまでくるとき、ふっとわかるんです。ここはいまの時間に乗っていないって。変な言い方かな、でも僕はそう感じる」
「とり残されているってこと?」
 と、明日香。
「それとはちょっとちがうと思う」
 怜は明日香を向いた。
「僕もじつはここが居心地がいい。稲村先生が言ったとおりで、ここは時間にとり残されてる。すっぽりとはずれているんだ、時代の流れみたいなものからね。僕はひょっとしたら、時間の流れに放りだされて、ここに流れついたのかもしれない。見なくてすむからね、気がついたときにはもうすっかり日が暮れてる秋の夕方みたいな、いまの世界をね」
 そう言って怜は、ゆっくりと身体をひねり、窓を見る。
「でももうすぐ、ここだって沈んでしまう。そう遠くない未来には。鳴海さん」
 名前をよばれ、鳴海はびくりと返事をした。
「はい」
「このあいだ、鳴海さんが飛び出していった嵐の日、僕は仕事をしていたころを思い出しましたよ。海辺はちょっと風が吹くとあんな感じだ。沼地ばかりで、立ち枯れの樹が大きな動物の骨みたいなんだ。僕はそれで、海が嫌いになった」
「海が嫌いなんだ」
 明日香が意外そうな声を出す。
「西さんは好きですか、いまの海が」
「海なんて見たことないわ。写真でしか。発電所の事故とかで、ずっと閉鎖されているんでしょ」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介