夏の扉
「それは、ね。答えられないわ。『赤い色ってどんな色?』って訊かれるのとおんなじ。説明のしようがないわ。わたしが『りんごの色』って答えても、それは答えじゃない」
ほかのテーブルでは、もう席を立って部屋に戻る人が幾人か。鳴海が怜や明日香たちから視線をはずし、ふと階段を見ると、稲村の後姿があった。午後は自分の診察がある。そろそろ食事を終えたほうがいい。
「西さんや芹沢さんは、戻りたくはないのかな」
怜が訊いた。
「戻るって、どこへ」
明日香が訊きかえした。
「たとえば、<街>に」
怜がそう言うと、明日香ははじめてだまった。怜の目をしっかりと見、右手の人差し指がサラダのプレートをそっとなでていた。
「戻れるなら、戻っていたと思う」
真琴がそっと鳴海を向いた。
「できれば、戻りたかった」
「西さんは、大学にいたんだっけ」
怜が言うと、明日香はただうなずいた。なぜそれを知っているのかと追求もせず。
「そう思っていたのは、でも最初の半年。半年をすぎたら、もう自分が戻れる場所はないんだって気がついた。帰るところがなくなったって。もし帰れても、また同じことの繰り返しだってね」
明日香が自分のことをしゃべりはじめていた。鳴海は意外な気がして、時計の針を忘れた。席を立てなくなった。おかしい、わたしは、他人のことを知ろうとしている。
「西さんは、……どこが悪かったんだろう?」
怜はひとりごとのように言う。それは配慮だったのかもしれない。
「どこが悪かったんだろう。いや、いまでも治っていないんだから、どこが悪いんだろうってね。わたしはわからない」
明日香は手持ちぶさたの左手で、空のグラスをいじっている。真琴は自分のトレイに、明日香や鳴海、怜の空になったプレートを集め、重ねていた。
「じゃあ白石さん、こういうのってどうかな。ある日、ぼうっと雲を見てたら、声が聞こえてくるのね。声はこう言うの。『誰かがお前を見張っているぞ』って。友達と会っていても、部屋で気圧配置図を書いていても、試験中にも、ずっと聞こえるのね。誰かが耳元でささやくの。『お前は見張られているぞ』って。そうなったら、どうしたらいいかな?」
真琴は全員のプレートを集めて重ね、それをトレイに載せて、談話室の入り口に置かれたワゴンまで持っていった。
「声はずっと聞こえて、するとわたしはどんなことにも手を抜けなくなるのね。遊ぶときも、勉強しているときも、ずっと。しまいには本当に誰かがずっと、ものかげからわたしのことを見張っているような気がしてきて、なにもできなくなった。白石さんだったら、どうする? 耐えられる? そんな生活。ずっと声が聞こえてくるのよ。起きているあいだはずっとね」
怜は答えない。
「わたしは、どうしたと思う? その声の主を探したわ。聞こえるってことは、どこかにいるんだってね。不意打ちするみたいにはっと振り返ったり、いま思えばばかみたいなんだけど、でもそうしないとわたしは、殺されると思った。ほんとうにね、殺されるんじゃないかって思ったの。そんなのいやだった。キャンパスを歩いていても、知らない顔ばっかり。だから、全員が声の主に思えてくるの。そんなの耐えられなかった。研究室にこもったり、ラジオゾンデを屋上から飛ばしているときは聞こえなかったけど、それは誰とも会わなかったから。知らない人が誰もいなかったから。そしてわたしは、大学に通えなくなったわ。電車に乗れなくなったのよ。家から出られなくなった」
真琴がしゃべりつづける明日香の前に、水の入ったグラスをおいた。明日香は真琴に小さく礼を言うと、半分ほどを一口に飲んだ。
「なにも悪いことはしていないつもりだったの。まじめにね、そう、あなたが働いていた環境省に入るつもりで勉強をしていた。ひょっとして、わたしがここにいなければ、白石さんとは別な場所で会えたかもしれないよね」
怜は残りのミルクを飲み、待ちかまえている真琴にグラスを渡した。真琴はグラスをワゴンに戻し、あわただしく席に戻ってくる。
「自分で言うのもなんだけど、わたしはまじめな学生だったの。なのに、ある日声が聞こえてきて、全部パー。そう、あの日は雲の色がとってもきれいだった。秋だったかな、秋だったけど暑い日で、わたしは屋上にいた。観測用の気球をね、気球っていっても、風船のオバケみたいなやつなんだけど、それを飛ばして、ふっと座り込んで空を見たら、何色っていえばいいのかな、青とかグレイとか、水色とか、もういろいろな色をした雲が、ずうっと流れていくのね。柄にもなく、『きれいだなぁ』なんて声に出したりして、見上げてた。そうしたら、聞こえてきたの、声が。
あのときの雲の色は、忘れられない。ひょっとしたら、あの雲が声の主だったのかもしれないと思ったら、すっごくいやな色に思えたりして、なんだかわけがわからないけど。そう、あとで気球をもどしてみたら、わかったことがあったわ。その雲がね、どうしてそんな変な色をしていたか、どうしてわたしが『きれい』って思っちゃったのか。ねぇ、どうしてだと思う?」
怜も真琴もだまったまま、だから鳴海もだまったまま。
「毒のかたまりよ、その雲。もうここでは全部言えないくらいの有害物質がね、もういやっていうほどつめこまれてた。考えてもみてよ、ただの水蒸気だったら、まだら模様に、そうね、たとえば子どもが落書きしたスケッチブックみたいな、でたらめな色のはずがないでしょ。とんでもないくらいの量の毒が浮かんでたわけ。そりゃもう『毒々しい』ってあのことをいうのね。そんな雲を、わたしはのんきに『きれいだなぁ』ってよろこんで見あげてたわけ。まったく、能天気よね」
明日香は半分残った水を飲み、グラスを真琴に渡した。そのしぐさは幕間におとずれる静寂に似ていた。
「わたしはなんでここにいるんだろうって、考えたことはある」
まくしたてるようだった明日香の口調が一転した。
「答えはね、すぐに出てくるの。ここには、知っている人しかいない。みんなと仲がいいとか、そういうわけじゃなくて、みんなを『知っている』ってだけでじゅうぶんなの。声は聞こえてこないから。どうしてかって、わたしは、みんなの声を知ってる。もしまた声が聞こえてきても、ここにいる人がしゃべっているんじゃないってわかるよね。それが大事なの。というか、声はここにいれば聞こえないのね。だからわたしはここにいるの。ここにいれば、声は聞こえてこないから」
明日香は夜に降る雨のような口調で、静かに言った。怜はだまっていた。鳴海は、なんだか涙が出そうになった。わたしは、明日香のこともよく知らない。知りたくなかったから、知らなかった。けれど、いまはじめて明日香のほんの一部を見たような気がした。不思議と終わりは見えてこなかった。しかし、「声」におびえ、自室で震えていたかもしれない明日香を思うことは簡単だった。だから、涙が出そうになったのだろうか。
「白石さんは、ここにいちゃいけないと思う。わたしはね。戻れる場所があるんだから。そういう意味でわたしは言ったの。あなたは、ここの人間じゃないってね」