夏の扉
鳴海はだまったまま、身をのりだして航跡をじっと追っていた。怜も上半身をのりだし、ひそかに彼女に影をつくった。
コントレイルは定規で引いたようになかなか消えない。にじんだりもしない。ずっと追っていると首が痛くなる。それでも鳴海は追うのをやめようとしなかった。ついさっき帰っていった兄の姿を、追いつづけているように。
会えなかった、兄の姿を追うように。
また、会えるさ。
怜は飛行機雲を追うのをやめ、鳴海の横顔をうかがっていた。空を見上げる彼女は、少女のようだった。あふれる感情を、怜は鳴海の横顔にたしかに見た。まだ、一筋だけ流れ出た、感情だ。
飛行機雲はやがて、<施設>の建物の影に入ってしまった。いまでも白い筋は残っていたけれど、もう轟音も聞こえない。もちろん機影も見えなかった。
怜はふと、いまごろ電車に揺られているだろう隆史もまた、窓から身をのりだして、子どものように飛行機雲を追っているのではないかと、ずいぶんと鮮明なイメージを得た。彼以外に乗客のいない、モーターの音だけが帰り道を保証してくれる、あの電車の中で。
鳴海は、空を見上げたまま、動こうとしなかった。廊下の向こうからチャイムが鳴っても、彼女はそのままだった。
怜はそっと鳴海の肩に手をおいたが、その温もりが彼女のものなのか、それとも陽射しが与えたものなのか、わからなかった。
三一、気球
怜と同じテーブルに、鳴海はついていた。誰かといっしょに食事をすることは少なかった。明日香や真琴が同席しても、鳴海から彼女たちと同じテーブルについたりはしない。なのに怜は、いっしょに食べようと鳴海をさそった。ことわる理由などなかったから、したがった。怜は明日香や真琴と同じテーブルにつき、あたりさわりのないあいさつをした。真琴は上目遣いで、明日香はそっけなく、彼に応えた。ふたりとも、怜と鳴海が同席している、その違和感にはなにも言わず、うっすらと湯気がのぼるランチを、口にはこんでいた。
奇妙だった。みんなと同じ場面、同じ舞台に自分が立っている。不思議だった。いままでそう感じたことはなかった。いつでも自分は、みんなの登場人物ではないつもりだった。みんなの「場面」に、自分を登場させたことはなかった。なのに、いま自分は、たしかに同じテーブルについて、食事をしている。
「いつも思うんだけど、ここの食事はおいしい」
差し向かいの怜が、チキンブロスをほおばって話しかけてくる。「そうは思わない?」
「気にしたこと、ないから」
「そうかな。僕はおいしいと思う」
鳴海はグラスに入ったミルクを一口。飲むというより口に含んだ。甘い。
「ずっとここで暮らしていたら、わからなくなるのかな」
怜はサラダをフォークにつき刺して、小気味よい音をたてて咀嚼する。
彼の声は小さい。けれどたった三、四〇センチほどの距離だから、ちょうどいい。鳴海は怜と自分の距離を、正確に把握していた。
「白石さん、すっかりなじんできましたね」
いつもの、つきはなしたような口調は明日香だ。けれど、それが彼女の癖だ。悪意はない。
「そう見えますか」
「帰れなくなりますよ、<街>に」
明日香は怜を向かずに、パンにかぶりついている。真琴の困ったような顔。
「だったら、ここに住んでしまいますよ」
怜の声はあいかわらず小さい。
「住めますかね」
「前にもおんなじことを言われたな。……やっぱりいまでも、僕は<街>の人間の顔をしている?」
明日香はそこではじめて怜の顔を向く。値踏みするように、かすかな笑みは不敵。
「さあ、どうかな。しばらく<街>にも行っていないから、あそこの人間の顔なんて、もう忘れているのかもしれないわ」
「じゃあ、僕がここに住めるかどうかもわからないじゃない?」
怜はグラスのミルクをごくりと飲み込む。「どう思う、芹沢さん」
いきなり話題をふられた真琴は、ちぎっていたパンをとり落とした。
「え、さあ」
「僕は、なんだかよくわからなくなってきたんです。ここにいる人たちとも違う、けれど僕はあっちにも帰れないかもしれない。だったら、どこへ行けばいいのかなと」
「白石さんは、環境省の人間だったんでしょう?」
明日香が言う。責めるような、口調。
「下っ端のね」
「白石さんは環境調査員だった。環境調査員って環境省の職員でしょ。だったら、<機構>の人間ってことだもの、あっち側のひとですよ。ここには住めない」
「その環境調査員の仕事を、僕はいま休んでいる。復職できるかどうかもわからないんだよ」
「どうして休んでいるの?」
「それは……」
怜はフォークを持つ手をテーブルにおいて、しばし考えている。明日香を向いていた目も、手元のグラスやプレートをゆっくりと行き来していた。
「僕にもわからない。けれど、職場の屋上でぼんやりと風に吹かれていたら、そのまま風に乗りたくなってね。目がまわったみたいな感じだ。ぐるりと、空も雲も一回転して、気持ちがよかった。何もかも忘れて、そのまま飛んでいけるような気がしたんだ。僕は叫んでた。『アーっ』ってね。本人は歌っているようなつもりだったのに、上司につかまって、そのまま病院に送られた。わけのわからないテストをいろいろやらされて、メールがきたよ、『君は休職扱いにする。じっくり治せ』ってね。で、気がついたらここへの紹介状を持っていたってわけですよ」
明日香はふうん、と言い、スライスされた赤いトマトを一切れ、食べた。
「なんで、ここに?」
「さあ、僕は知らない。それに、紹介状を渡されるまで、ここにこんなところがあるってことも知らなかった」
真琴がかわいらしいくしゃみをした。明日香がポケットからハンカチを渡すと、真琴はありがとうと鼻をぬぐう。
「西さんは、いつからここにいるんだっけ」
「わたし?」
「そう」
怜がうなずくと、明日香はグラスのミルクを一気に飲み干した。右手の甲で口をぬぐい、一息つく。
「いつからここにいるのかなんて、思い出すこともなくなるくらいのあいだ、ここにいるよ」
「でも、いつだったか僕が訊いたときは、まだ新入りだって言っていた」
「新入り、たしかにそう。まだわたしたちは新入り。……でもあなたはもっと新入りだわ」
怜はだまってうなずいた。
「鳴海さんで、五年目だっけ」
明日香は話題を鳴海にふる。しかしずっと彼女たちのやり取りを見ていた鳴海は、真琴のように驚くこともなく、ただ首を縦に振る。
「わたしは、三年と十一ヶ月。真琴は?」
「さ、三年と、七ヶ月」
「あなたはたかだか、二ヶ月くらいでしょ、それに外来。ずっとわたしたちはここにいて、ここの人たちと顔をつき合わせてきたの。だからわかる。あなたはここの人間の顔じゃないわ」
「そんなにちがうものなのかな」
怜は誰も向かず、言った。彼のトレイのチキンブロスは、もうきれいになくなっていた。
「ちがうわ。……でも、わたしがおぼえている<街>のひとたちの顔とも、微妙だけどちがうかもしれない、白石さんの顔は。少し、ね」
「どこがどうちがうのかって訊いても、答えてくれないんだろうね」