夏の扉
「まるで、稲村先生のカウンセリングを受けているみたいだから」
言われて、怜も笑うしかなかった。そうか、自分の口調は稲村のそれに似ていた。知らずのうちに、稲村の口調がうつってしまったか。そう考えると、怜はおかしかった。声をだして笑った。
「ごめんごめん、たしかに、そうですね。稲村先生みたいだった」
声を上げて笑いだした怜を、鳴海は顔を上げて少し不思議そうに見た。
「稲村先生か」
座りをなおすと、ベッドがきしむ。もともとが病院のベッドだ、あまりいいフレームでもないようだ。
「前に言っていましたよね、稲村先生とはあまり話しをしたことがないと」
「言いました」
「僕もこう見えて、それほど話をするのが得意なほうじゃないんです。なのに稲村先生の前ではペラペラとどうでもいいことまでしゃべってしまう。あれがカウンセリングの技術なんでしょうかね」
「話をするのが好きじゃないんですか?」
「本当は、ね」
ここにくると、自分は饒舌になる。不思議なくらいに。水が湧いてくるようだ。すくってもすくっても、あとから湧いてくる。その水を誰かに飲ませたくなる。つまりは、話を聞いてほしくなるのだ。意外だった。鳴海は自分の水を飲んでくれているのだろうか。彼女は兄が描きだした<世界>をじっと見つめていた。
「あなたのお兄さんって人は、面白いですね」
怜は鳴海を見ず、窓を向いて言った。隆史はもう電停にたどりついただろうか。日陰のないプラットホームで、彼は白い陽射しを浴び、帰るべき空を見上げているだろうか。
「面白いですか」
鳴海はページを繰るように、兄の絵を一枚いちまい、ていねいに鑑賞している。
「面白い、というか、友達になれたらきっと楽しいだろうなと」
「友達?」
「ええ、友達です」
友達。そんな言葉がこの世にあったなんて、怜自身しばらく忘れていた。
「パイロットなんだそうですね、お兄さん」
「誰から聞いたんですか?」
「お兄さんから。『空へ帰るんだ』って、ずいぶん面白い言いまわしだなと思ったんですが。でもそのとおりだ」
ひきだしを開く音。怜は鳴海を向く。彼女が取りだしたのは、やはり、絵だった。
「それは、お兄さんの?」
鳴海は無言でうなずき、そのまま怜にさしだした。
大きな灰色の飛行機、グリーンのつなぎを着た男、青い空、陽射し。奔放だが繊細なタッチはまさしく隆史のそれだ。では、描かれている男は、隆史のセルフ・ポートレイトなのか。
怜は飛行機にはうとい。が、描かれているのが観測機などではなく、あの給油所の裏手でくたびれた元パイロットとながめた飛行機と同じだということはわかる。戦闘機だ。
「お兄さん、戦闘機のパイロットなんですか」
「それ、兄に見えますか?」
鳴海は怜には応えず、質問で返した。
描かれている男は、隆史と同年代。まぶしそうに目を細め、照れたようにも見える。背後にたたずむ大きな戦闘機が彼の頼もしい相棒のようだ。しかし強く陰影がつけられたその絵からは、描かれているのが誰なのかはよくわからなかった。
「お兄さんじゃないんですか?」
「わからないんです、それだけじゃ。それよりわたし、兄の顔をしっかりと思い出せない」
鳴海は苦笑をもらした。きょういくつめの表情だろうか。
「どうして」
「もうずっと、会っていなかったから」
「ときどきは面会に来ているんでしょう?」
「来ているんだと思います。来てくれていることは知っているの。だけど、わたしは会っていないから」
「会っていない?」
鳴海はゆっくりとうなずいた。
「どうして」
応えない。
「……、お兄さんが好きなんだね」
怜が言うと、鳴海ははっと顔を上げた。
「きょうの様子を見ていれば、あなたがお兄さんのことが好きなのはよくわかりましたよ。だから、会わないんですね」
「会わないんじゃないわ、会えないの」
風が頬をなでる。心地いい。風車がまわるあの風切音が聞こえる。
「会えない……。会いにきてほしくなかった」
鳴海は薄い肩を震わせた。泣いている……? ちがう、彼女はただ震えているだけだ。まるで何かにおびえる子猫のように。
怜は深呼吸をひとつ、そっと。彼女に気づかれないように。胸にたまったいろいろな感情を、このさいすべて吐き出す必要があった。吸いこむと、真水の匂い。いや、比喩ではない、本当にいは真水の匂いを感じていた。ベッド……シーツだ。こまめに取り替えられ洗濯されているのだろう、白いシーツからは真水の匂いがした。それもかなり強い。水道水の消毒液まじりの匂いとはちがう、すべてが排除され、まるで蒸留水のような、匂いなど絶対にしないはずなのに、まわりの「不純」ななにかを呼び寄せ、それらと反応して発する独特の匂い。怜はベッドを降りた。
そっけない部屋だった。どこかの寮の一室のようだ。いや、寮の部屋のほうが、かえって束縛や不自由への抵抗のためににぎやかだ。この部屋は何も語らなかった。それが唯一雄弁だった。怜は足音に気をつけながら窓辺へ歩む。陽射しがまぶしい、中庭を見下ろす、複層ガラスがはめこまれた大きな窓に。
風が額の熱をうばっていく。ジャケットの襟が風をはらみ、涼しい。怜は微かだが汗をかいていたようだ。緊張の? さあ、どうだろう。
緑の匂い。真水の匂い。ただよってくる潮の匂い。怜が立つ窓辺は交差点だ。さまざまな匂いがここで交差し、それぞれが主張する場所。そして風と音と光。水面からは遠く、空が近かった。雲が見え、青い底をさらした空が望めた。街の西側に連なる山地は、案外近かった。屋上とここでは見えかたがちがう。樹々の枝がはりだしているせいか、それともただ、天井があるからか。屋上では、頭の上からすぐ、空がはじまっていた。手を伸ばせばそこはすでに空だった。しかし、鳴海の部屋で手を伸ばしても、空へつながる空間に触れられるだけだった。しかたがない、人は空では生きられない。もちろん、海でも生きられない。閉ざされた場所で眠り、目覚める。
微かな雷鳴に、怜は窓から首をつきだし、仰ぎ見る。そして、呼ぶ。
「鳴海さん」
いい風だ。
鳴海は怜の呼びかけに、スイッチが入った自動人形のようなしぐさで応じた。ゆっくりと首が動く。
「こっちへおいでよ」
怜は少々オーバーに手をふる。
「早く、はやく」
手招き、二度、三度。
鳴海は椅子から立ちあがり、怜の招きをうける。
「なんですか?」
窓辺で怜は、空を指さした。空を。鳴海が彼の指を追う。
航跡。
真っ白く、ふた筋の飛行機雲。
「……まぶしいな」
怜は右手を額にかざし、目を細める。
「飛行機……」
鳴海はそっと窓から身をのりだした。南から北へ。いままさに南中しようとしている太陽から、ふた筋のコントレイル。
「きれいだ」
怜は目を細め、航跡の先端、いまにも空に混じってしまいそうなほどに小さく見える飛行機を追った。轟音が遅れてついていく。
怜は隆史のスケッチを思った。灰色の飛行機の前でやはり目を細めていた男を描いた、あの絵を。
空に帰っていった彼は、ひょっとしたらもう、高みから妹を見下ろしているのかもしれない。はるか、高く。