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夏の扉

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 <施設>の部屋のドアがノックされているのに、鳴海は兄の部屋のドアがノックされているのだと思っていた。だからきつく目を閉じ、心の扉を懸命に閉ざそうとしていた。
「鳴海さん」
 今度こそ、鳴海は悲鳴をあげた。
「こないで!」
 自分の声で我に返る。ちがう、ここは<施設>の自分の部屋だ。父も母もいない、自分の部屋だ。
 鳴海はベッドを降り、よろよろと力なくドアまで歩いた。ドアがこんなに遠いとは思わなかった。
「はい」
 ドアの向こうにはまだ誰かの気配がある。兄ではない、兄は自分を「鳴海さん」とは呼ばない。ノブをひねってドアを開くと、泣き出した鳴海のとなりで困っていた兄のような顔をした、怜が立っていた。
「白石さん」
 怜の足はもう、部屋の前を離れようとしていたようだ。爪先は談話室を向いていた。
「お兄さんに部屋を教わったんです。談話室から近かったんだ。このあいだ僕が泊まった部屋とは正反対の位置だけど」
「……お兄ちゃんは?」
 ドアは半分だけ開けて、立ち話。
「たったいま、帰ったんですよ。ちょうど電車が来るって言ってね」
「そうですか」
 頬が冷たい。涙が流れているのに気がつかなかった。手の甲でぬぐうと、ぐっしょりと濡れた。怜が気まずそうな顔をして、所在なく立ちすくんでいた。
「……どうしたんですか?」
 凍えてしまった冬の朝のような声。。鼻声まじり。鳴海は膝の震えを懸命におさえる。
「お兄さんから、あずかりものがあるんで」
 怜は鳴海の目をまっすぐに見ていた。鳴海はだから、目をそらした。
「なんですか」
 鳴海が訊くと、怜はジャケットのポケットから、封書の束をとりだした。
「絵、だそうですよ。あなたに渡してほしいって」
 差しだされた束を、ほとんど反射的に鳴海は受けとった。重い。手紙のようだが、宛名も差出人の名前もない。目の前の郵便配達人は、受け取りのサインを待っているかのように、何も言わずにたたずんでいる。
「お兄さんの絵、僕も見ましたよ。……いい絵ですよね」
 彼もまた、「うまい絵だ」とは言わなかった。いい絵だと、そう言った。
「見たんですか?」
「違う違う、これじゃなくて、こっちですよ」
 怜はあわててもういっぽうのポケットから、折り目のついた一枚の紙を差しだした。鉛筆画、見慣れた風景。しかし視点が高い。
「屋上……?」
「ええ、屋上からね、お兄さんがこれを紙飛行機にして、僕の足もとに着陸させたんだ」
 いたずら好きな少年だった兄。初対面の人間に紙飛行機とは、兄らしい。
「これは、僕と稲村先生ですよ」
 <施設>の中庭だ。実際より少し広く描かれていて、芝生の上にふたり。ひとりは座って、ひとりは遠くを見るように立っていた。立っているほうが、怜か。
「屋上に上がったことはあるんでしょ?」
 怜の困惑顔は、もう待合室で煙草を吹かしているときのそれに戻りつつあった。鳴海は何だかほっとして、こっそり息をついた。
「あまり、好きじゃないんです」
「屋上が?」
「ええ」
「どうして?」
 怜の言葉は背後の部屋の中まで飛びこんで、鳴海は返球できなかった。
「入りませんか?」
 自分でも思わぬセリフが出てきた。他人を、自室に招き入れる?
「いいんですか?」
「落着かないでしょ、入ってください。なんにもないですけど、お茶くらいなら出します」
 鳴海はそれだけ言うと、もう怜の顔を見ずに踵を返した。そして、まだ残っていた涙をぬぐった。うしろで、怜の呼吸が、しっかりと聞こえた。
 窓を開けよう。ちょっと、もう暑いから。窓を開けないと、部屋にこもった「わたし」が、きっとわたしを「わたし」でなくしてしまう。風を入れよう。風に当たりたい。
 鳴海はまっすぐ部屋を横切って、複層二重ガラスがごつい窓を開けた。


   三〇、体温

 白い壁に白いカーテン、そして白いシーツのベッド。ライティングデスクはくすんだ木目が落着いた色合いだ。小さなスティール製の書棚と、並んでハンガー。紺色のカーディガンに、淡い桃色のニットシャツ、そんな部屋着ばかりが下がっていた。そっけない。鳴海がいくつなのかは知らないが、怜よりも歳が下なのはまちがいない。なのに、二十歳前後の女の子の部屋にしては、殺風景すぎた。ここが<施設>という病院だから、殺風景なのは当たり前なのかもしれないが、それにしても、鳴海の部屋には生活の匂いが希薄なのだ。
「ベッドの上にでも腰かけてください。座るところがないんです、わたしの部屋」
 鳴海はライティングデスクとセットのデザインの、華奢な椅子に腰かけた。まっしろい膝頭があらわになったが、作り物めいていて、そのせいで怜は目のやり場を考えるはめになってしまった。
 怜はパイプベッドに腰掛けた。マットがなく、じかに布団をしているのも以前怜が泊まった部屋と同じだ。かならずしも寝心地がいいとはいえなかったが、悪夢にうなされるほどではなかった。鳴海はこのベッドでどんな夢を見ているのだろうか。
「もう、暑いですか」
 鳴海は兄がよこした封書の束をときながら、小声で言った。
「少しね。もう、夏です」
 怜は居心地が悪い。こんなけっして広くない閉鎖空間で鳴海とふたりきりになったのは、はじめてだ。中庭も待合室も、そして嵐の中でさえ、ほかの空間と通じていた。だが、ぴったりとドアを閉じたこの部屋は、いくら窓が開いているとはいえ、狭すぎた。
「風が入ってきませんね」
 鳴海は窓を向く。
「ドアも開けないと、空気が抜けないから」
 怜が言う。閉ざされた、扉。
「暑くないですか?」
「僕は、寒いよりは暑いほうが好きだから」
「わたしと逆ですね」
 鳴海はそう言って、封書を開いた。デスクのひきだしから、中世の騎士が持つ剣のようなデザインのペーパーナイフで、すっと開封して。
「白石さんは、じゃあ夏が好きなんだ」
 目は兄の言葉のない手紙に落として。
「冬よりはね。夏のほうが好きかな」
 隆史は色とりどりの封筒に、自分の世界を封じ込めていた。十数通におよぶ宛名も差出人の名もない手紙は、みんな色違いの封筒だった。虹色。
「鳴海さんは、冬が好きなの?」
 手持ちぶさたの怜は、小さな書棚に並んだ本の背を読む、小説より、大判の絵本が圧倒的だ。でも、読みこまれている様子はない。どれも書店で見かけるように状態がよかったからだ。
「夏よりは、冬が好き」
「寒いほうがいいんですか?」
「部屋で、ひとりでいても、誰もなにも言わないから」
 鳴海はゆっくりと封筒を開けていく。ケント紙か、上質な紙に描かれる「世界」がひとつひとつ、ひもとかれていく。
「夏はちがう?」
 怜が訊く。
「……、みんな、でかけていくでしょ」
「でかけるのが好きじゃない?」
「嫌いです」
 鳴海の部屋で、鳴海は自分をしっかりと確保している。そうか、ここは鳴海の「世界」だ。怜の知っている場所ではないのだ。いったいいくつ、「世界」はあるんだろうか。人の数だけ、用意されているのだろうか。
「どうして、嫌い?」
 怜は訊く。すると、鳴海は聴きとれるかとれないか、それくらい小さく、笑った。
「僕、なんか変なこと訊きました?」
「稲村先生みたいだから」
「え?」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介