夏の扉
「それに、あんたはあきらめた顔をしていない。そのうちここのことなんか忘れられる人間だ。いい意味でね。……環境省の人間にも、あんたみたいな人間がいたんだな」
笑みをこぼして隆史は言う。いい笑顔だった。「世界」に境界は、ない。
「僕はどうせ下っ端さ」
「ははっ」
声を上げて兄は笑った。屈託ない、子どものような笑顔だった。
「じゃあ、よろしくたのむよ」
隆史はそう言うと手をふり、さっと身をひるがえした。
「帰るんですか?」
「ああ、帰るよ。あとは、よろしく」
後ろ手に手をふって、階段室の扉に向かう。
「綾瀬さん」
怜が呼び止めると、隆史は振り返った。
「なんだい」
「いや。……いい天気だなと思って」
怜の言葉を受け止め、隆史はすこし考えてから、また笑った。
「ああ、いい天気だよね。空に帰るには、ぴったりだよ」
「空に?」
「俺は、パイロットなんだ。どう転んだって海にはなれないよ」
隆史の言葉はまっすぐに怜に向かって飛んできた。
「知り合いに元パイロットがいるけれど、大違いだよ。……また、会えればいいな」
怜はわざと、思いっきり明るく言ってみた。
「あんたが飛んでくればいいんだよ」
「残念ながら、僕は飛行機が苦手なんだ」
「じゃあ、俺が泳ぎに行くさ、海にね」
「……、環境調査員として、あんたが描いたあの砂浜は気になるよ。あそこでいつか会えれば」
怜は数瞬、隆史の目を探した。太陽を。雲に隠れていた太陽を。
「いくらでも案内するさ。そのときは、妹もつれてきてくれればいい」
雲は晴れていた。快晴ではなかったけれど、パイロットが空に帰るにはじゅうぶんな明るさが、そこには見えた。
怜が手をふると、隆史も返す。そして、階段室の扉を開き、消えた。
空に染まったプロペラと怜が、屋上に残された。怜は風切音を、数えていた。
二九、桜
見たものをそのまま描くのが絵ではないんだと、兄は鉛筆を走らせながら、鳴海に言った。あれはいつのことだったのだろうか。ふっと記憶と記憶のすきまから、兄の横顔がすべり落ちる。厳重に閉じて鍵までかけて、そして鍵をなくしてしまった心の扉。その向こうが、ときどき見えることがある。鳴海はベッドの上で膝を抱えていた。ひとりの夜を怯えてすごす子どものように。廊下の足音がひどく気になった。きょうは、キャストが多すぎる。そっけない白いカーテンは開けたままだから、枝を透かして中庭が見える。部屋は少し暑かった。でも鳴海は窓を開ける気にならなかった。自分の世界が流れ出て、外と同化してしまうのが恐かった。わたしはここにいればいい、誰も来なくていい。
<施設>の部屋のほとんどは鍵をかけることができない。鍵穴そのものがないのだ。コの字型の建物の、北西側はかつて閉鎖病棟で、外からしか鍵のかからない部屋がいくつかあったらしいが、いまはもうない。鍵がかかるのは、医師の部屋や事務室など、限られた場所だけだ。ここではプライバシーなどを気にする人間がいないせいもある。誰もが他人に無関心だからだ。明日香と真琴は仲がいいが、見かけるのは談話室でだけだ。お互いの部屋を行き来することはあまりないと聞いた。鳴海自身、明日香の部屋を訪れたことはあるが、真琴の部屋には入ったことがなかった。もう何年も一緒に暮らしているはずなのに。
だから、個室のドアがノックされることはほとんどなかった。鳴海を訪ねてくる人間がいないのだ。それを寂しいと感じたことはなく、ありがたかった。ひとりでいるほうが、ずっと楽だからだ。人と接すれば、「見えて」しまうから。
兄はもう帰ってしまったろうか。
三ヶ月に一度、彼は鳴海を訪れる。そう、季節に一度。そして、季節ごとのスケッチを手土産に。隆史の絵を、鳴海は好きだった。水彩絵の具でさらりと彩色された構図が、好きだった。霧の向こうに広がっている、夢の世界だ。隆史は描き出す世界に人間をくわえない。建物や空に雲、川に架かった橋、鉄塔や飛行機。そうだ、飛行機を描いた絵には、たったひとりだけ人間がいた。ひょっとしたら兄が乗っている飛行機なのだろうか、灰色に塗られた一人乗りの飛行機の前に、グリーンのつなぎを着た男性が、ぎこちない表情で立っていた。絵は写真と違う。隆史が見たものを描いているのか、それとも彼自身の内部に広がる風景を描いているのか、鳴海は知らない。訊こうとしたこともない。だから飛行機の前に立っている男性が兄自身なのか、別の誰かなのかはわからなかった。目をまぶしそうに細め、帽子を目深にかぶっていた。長身ですらりとしているのは兄そっくりだ。けれど鳴海は、その絵の「終わり」が見えない。兄の絵に「終わり」を見たことがない。そこで完結しているのだ、彼の絵は。鳴海は思う。絵を見るということは、描き手の世界に自分が入りこんでいくことなのだろうと。だから、描き手が「終わり」を「見て」いなければ、自分も「終わり」を「見る」ことはないのだろう。
小さいころは、祖母が読んでくれる絵本が好きだった。物語も好きだったが、絵が好きだった。それはきっと、描き手の世界に入りこむのが好きだったからだろう。誰かが言っていた。世界には、人の数だけ「世界」があるのだ、と。物心がついたころ、鳴海は自然に絵を描くようになっていた。居間の窓から見える山や、兄の部屋から見えた桜の樹を。春、桜が咲くと兄とふたり、ベッドの上に座って花をながめた。なつかしい記憶が、扉を突き抜けて見えてくる。鳴海の絵を兄は「好きだ」と言ってくれた。嬉しかった。「うまい」とほめたわけでもなく、「ここをこうしたほうがいい」と指導したわけでもない。ただ「好きだ」と言っただけだった。鳴海は毎日兄の部屋に行き、桜の樹を描いた。花弁を一枚一枚、細かく描きこんだ。父が買ってくれた色鉛筆で色もつけた。桜色の色鉛筆はなく、鳴海が描いた桜の花はずいぶんと赤味が強かった。そして絵が描きあがったころ、桜の花はすべて散っていた。描きあげた絵の中で、桜は満開だった。しかし、窓から見える枝は葉が繁り、もう別の樹に見えた。
(ああ、だめ)
鍵をなくした扉には、いつのまにかすりガラスの窓ができていた。だめだ、閉じこめた記憶が、こぼれてくる。
せっかく描きあげた桜の絵を、兄は「好きだ」と言った。鳴海の絵は、僕は好きだよ、と。でも気がつくと鳴海は涙を流していた。咲いていた桜は、もう、ない。困惑した兄の横顔、そして父の声が聞こえる。(鳴海、きれいな桜だな)
やめて、と叫んだがもう遅かった。閉じこめた記憶のかけらがひとつにまとまりつつある。兄、父、幼い自分。なつかしい記憶だ。
泣いている鳴海に目線をあわせて、父が横からスケッチブックをのぞきこんでいる。(どうしたんだ)
ああ、聞こえる。
鳴海は現実のベッドの上で、両膝に顔を沈めた。そうしないと、ここがどこなのかわからなくなってしまう。ここは<施設>だ、好きだった兄の部屋ではない。時間の流れに身体がとけていく。鳴海は必死で扉を閉じようともがく。すると、ドアがノックされた。
こないで、お父さん、お母さん。
ノックは続く。二回、三回。リズミカルに。