夏の扉
<施設>の屋上はプロペラの風切音と、変電施設のうなり以外は静かだ。虫一匹飛んでこない。そういえば怜はここしばらく虫を見ていない。ふと背筋を逆さになでつけられたような悪寒がはしった。また、フラッシュ・バックだ。自分の病気が治りかけているだって? これではまるでヨタヨタのジャンキーじゃないか。
「あのときの顔は、いまでも忘れられない。まるで抜け殻みたいだった。いれものだけ残してあいつの中身がどこかへ抜けてたみたいなね。陳腐だな。でも俺は本気でそう思ったんだ。だから訊いた。『どうしたんだ』ってね」
怜はなにもことわらず、ポケットから煙草とライターを取り出した。灰皿がないが、火の点いた頭をつぶして、吸い殻は持ち帰って捨てればいい。
「気にしないで喫ってくれてかまわないよ。ここは禁煙じゃないみたいだ」
怜のそぶりに隆史は妹とおなじことを言った。フリントを擦ろうとした手が一瞬止まる。
「『どうしたんだ』って訊いた。すると鳴海は言ったよ、『終わりが見える』ってね。俺は聞き返した。それっきりだ。あいつはなにも言わなくなった。ただ悲しそうな目で俺を見るだけだった。俺は身体中の力が抜けたよ。あいつの目はもうなにも見えていなかったのさ。見えていなかったんじゃなくて、見ようとしていなかった。
両親は、妹のことを自閉症だと思っていた。そう、自閉症だ。でも、自閉症は後天性のものは少ないんだそうだ。心の病気なのかどうかも、じつのところ区別が難しいって聞いた。自分の殻に閉じこもるのが『自閉症』ではないんだそうだ。たしかに妹は、鳴海は自分を高い壁の向こうに追いやってしまって、しかもその壁の向こうへ通じるドアも自分でふさいでしまった。その部屋には窓もないんだ。そのとおりさ、なにも見なければ、『終わり』は『見えない』んだ」
隆史はいっきにしゃべる。怜はふと、彼もまたどこか病んでいるのではないか、疑問符が転がった。しかし、怜の存在など忘れているかのような口振りなのに、彼は視界のはしでしっかりと怜を捕らえて放していなかった。隆史は誰にでもない、怜に向かって話しかけているのだ。
「どういう意味なんだろう」
怜は思い切り吸いこんだ煙を思い切り吐き出した。そよ風に流されて、煙のかたまりはゆるゆると怜を離れていく。かたちを変えながら、ゆっくりとだ。
「そのままの意味だよ。『終わり』が『見える』んだ。……こう考えたことはないか、例えば花を摘んでくるとする。花瓶に生けるかもしれないし、小さな子どものようにリングを作って壁に飾るかもしれない。でも、そのうちに花は枯れる。しおれて色褪せて、そうして腐りはてて、捨てられる。わかるかい?」
「わかる」
「でも、そんななれのはてを想像しながら花を摘んだりするだろうか。ほとんどの人間はなにも考えていない。きれいだから摘む。鮮やかな色を手折ってやる。そして、しばらくのあいだ、花は花のままでいる。でも、いつまでも花は花のままではいられない。しおれて枯れて、腐っていく。
鳴海はいま咲いている花を見て、そのなれのはてを『見て』しまうんだ。いくつも病院を転々としながら、妹は俺にそう言った。白石さん、あんたならどうだろうか。道端で咲いている花を恋人に渡そうと考えて、その花が恋人の部屋に飾られて、やがて枯れて捨てられていく様をね、想像できるだろうか。想像して欲しい。それが花ではなく、恋人だったらどうだろう。……年老いて死ぬ、そんなことじゃない。あんたの恋人が『いなくなった』あとの世界を、あんたは想像できるかい? しおれ枯れはて、朽ちていく恋人の姿をね」
そう言って隆史は怜を向いた。切れ長の目の奥で、太陽は雲の影に入ってしまっていた。怜は灰をたたき、喫った。
「彼女は、鳴海さんは、僕を『登場人物』にしたくないと言っていた。誰もいなくなった部屋にとりのこされるのが嫌だと言っていた。それは、いま綾瀬さんが言った意味なんだろうか」
「そんなことまで、言っていたのか、妹は」
「言っていた。『これ以上わたしにかまわないで欲しい』ってね」
煙草はあっという間に根元まで燃えてしまった。コンクリートフェンスの側面に頭をこすりつけ、火を消した。細かな葉が散り、フィルターだけが指に残る。それを怜はてのひらで包みこむ。
「真水で暮らしている生き物が海水に触れるとどうなるか知っているか」
隆史はいきなりそんなことを言った。
「僕は環境調査員だ」
「そうなのか」
「そうだよ」
「だったら、わかるだろう」
「浸透圧の原理くらい、中等科の生徒だって知っているさ」
「あんたは、海水なんだ。鳴海にとってね」
「僕が?」
隆史は無言でうなずいた。
「どういう意味?」
「そのままだよ。鳴海は久しぶりに海に入ったんだ。だから、潮が沁みているのさ。でも、妹は真水の中で一生を暮らす必要なんかないんだ。俺はそう思っている。俺は海水じゃない。真水さ。さもなければ生理的食塩水かな。それに俺はもう鳴海の『登場人物』だよ。メインキャストさ。だから、俺はもう何もできない。たまに顔を見せて、様子をうかがうくらいだ」
「両親は……?」
「発電所の事故の後遺症でね」
隆史は風ですこし乱れた髪をかきあげ、空を仰いだ。つられて怜も見上げた。
「人はいずれいなくなる。誰でもね。摘んだ花と同じだ。それはしかたがない。でも妹はそれを受け入れようとしなかった。気持ちはわかるが、どうしようもない。
ここは真水なんだ。真水に浸ったままでは、妹は治らない。あんたは、海水だ。だから、初対面なのにこんなに話をしてしまった。悪かったと思ってる。ぜんぶ俺の都合だ。気を悪くしたのなら、あやまる。けれど、鳴海はあんたを信頼しているよ」
冷ややかな拒絶、それが鳴海が怜に向けた意思だ。なのに、信頼している?
「ばかな兄貴だよ」
隆史は笑いながら、封書の束を、束といっても厚さはそれほどもなかったが、それをとりだして見せた。
「手紙じゃない。ぜんぶ、絵だよ。俺が描いた。文章じゃ何を描いていいのかわからなかった。けど、鳴海は絵が好きだった。絵本がね。だから、時間を見つけては絵を描いた。……送ってやろうと思ったんだ。だけど送れなかった。メインキャストの俺が何をしても妹はつらいだけなんだ。いつもここに来るたび、描きためた絵をあいつにあげようと持ってくる。それがこんなにたまってしまったんだ。渡せないままでね」
「でも、さっきは」
砂浜のスケッチ。鳴海の微笑み。
「数えるくらいさ。きょうの妹は、落着いていたからね。直接渡せば、妹の中の『俺』が勝手に演技をしたりしないから、逆に楽なんだ、きっとね」
隆史は封書の束を怜に差し出した。
「あんたが渡してくれればいい」
「僕が」
「ああ。他人と会話をしている妹をしばらくぶりに見たよ。あのとき思った。妹はあんたを信頼している」
空に染まったプロペラの話を鳴海にしたときの、彼女の笑み。自分らしくないファンタジー。それを聞いた彼女は微笑んだ。
「あんたは海なんだ」
隆史はつぶやくように言った。怜は隆史から束を受け取った。紙飛行機より、ずっと重かった。これは「世界」そのものだ。