夏の扉
最後のドアに行きつく。すりガラスの向こうは、屋上だ。開く。いきなり怜の横面を空気が打った。風が強い。しかしそれは一瞬で、すぐにやんだ。侵入者を警戒するシステムのようだ。
まぶしい。
光の中庭から影の室内、光の踊り場、談話室、暗い階段、そして屋上。
屋上は広かった。階段室は小さな部屋のように屋上に出っ張っていて、屋根に給水タンクが載っていた。そして目につくのは、太く巨大なポールだ。風切音が大きい。三連の風車が立っていた。プロペラが空色に染まった、あの風車だ。風力発電施設を建設するときは、滑走路を作るときのように風向きの統計をとる。小型の風車ならば風向きによっては方向を変えられるが、大型のものではなかなか難しい。だからある程度風が吹きこんでくる方角を決める。それから風車を設置するのだ。なかにはコンピュータ制御で風車の向きを時間ごと、季節ごとに変更できるものもあるが、ここの風車はどうなのだろうか。怜は屋上に上がって、風車の大きさに驚いていた。電停からここまで歩くのに、なぜ気がつかなかったのだろうか。嫌でも目につきそうなものだ。おそらく怜は、「世界」を結ぶ電車を降り、ここまで歩くあいだに<施設>を意識していないのだろう。見えているのに見えていない。隆史に気づかされた自分の目だが、まだ「生きて」いる部分はあったのだ。意識的に視界を消せる。
隆史はフェンスに肘をつき、さきほどと同じ姿勢で景色をながめている。フェンスは彼の腰より高い。
屋上には彼しかいない。鳴海の姿はなかった。彼女は、部屋か。彼女の部屋がどこかは知らなかったが、部屋での彼女の様子は想像できた。ぽつりとベッドに座り、たたずむ、そんな姿だ。安易だろうか。
「こんにちは」
怜は風車のすぐ脇あたり、隆史まで距離を少しあけて声をかけた。なるべく感情をこめないようにして。警戒しているのは自分だ。
気づいた隆史はゆっくりと振り向いた。そして手をあげた。(やあ)。
隆史に歩み寄る。屋上の床はコンクリートを一面に塗りこめたそっけないもので、ところどころがひび割れて、雑草が顔を出していた。
「ながめがいい」
怜が隆史にならぶと、隆史はそう言ってまた外を向いた。
「<施設>に来るたび、ここに上がるんです」
隆史はまた両肘をついて姿勢を下げた。少年のような声、肌もきめが細かい。しかし首は太かった。
「白石さんだっけ」
「ええ」
「あんたはなんだか場違いに思えたんだ。なんであんたみたいな人がここに来ているんだろうって」
ぞんざいな口調だが、怜は彼のものいいが嫌いではなかった。なんだか真綿にくるんだナイフのような雰囲気の稲村より、ずっと好感が持てた。
「どういう意味?」
自分の声は隆史にくらべればずっと低く、太い。
「妹やほかの人たちを見てると、わかるんだ。あんたは違うなってね。そう思った。最初会ったときに『ここの人なのか』って訊いたけれど、あれは確認だったんだ」
「どこが違うんだろう」
怜も肘をついて外を向いた。沈みかけの街が眼前に広がっている。ならぶ送電塔、山裾の住宅街はもう森に飲み込まれかけている。
「俺は医者とは違うから、くわしいことはわからない。けれど、顔が違うよ。あんたはあきらめていない」
「あきらめ? なにを?」
「ここの人たちは、たぶんあきらめているんだ。だからあんな顔をしている。穏やかで、あせった顔をしていない。本当に病人なのかと疑いたくなるような顔だよ。でもあんたの顔は、そんな顔じゃない。悩んでる。あきらめた顔じゃないよ」
隆史の話は抽象的だ。しかし怜は彼の言葉に思いあたることがあった。
「そうか、だからなんだ」
怜がつぶやく。
「僕も、最初ここへ来たとき、<施設>の人たちの顔を見て思ったんだ。この人たちはどこが悪いんだろうってね。あなたの言うとおり、穏やかなんだ。みんな穏やかな顔をしていた」
マグカップを片手に外をながめる老婦人の背中がよみがえる。いつもせわしない真琴だって、なにかにせきたてられていわけではなさそうだった。あきらめか。
「でも、何にあきらめているっていうんだい?」
怜は哲学者のような顔をして外を向いている隆史に問う。
「何に、か」
隆史は左手で髪をかきあげた。それほど長くはない、怜とほとんどおなじ長さの髪だ。
「それは、人それぞれなんじゃないかな。共通しているのは、でもあきらめだと思う。俺はね」
「妹さんも?」
怜が言うと、隆史は目を細め、苦痛に耐えるような顔になった。
「鳴海か」
彼女と隆史は歳はいくつ離れているのだろうか。ふたりとも実年齢より上に見えそうなタイプのような気がした。大人びている。
「本当にあいつのことを考えれば、会いにこないほうがいいのかもしれない。会いにくるたび、後悔する。くるんじゃなかったってね。俺と会うことが、鳴海にはつらい」
「『終わり』が『見える』から」
怜が言うと、隆史は振り向いた。
「鳴海が言ったのか」
怜はうなずく。
隆史の瞳がすっと色を落としていく。落胆か、寂しそうな光を宿していた。
「鳴海がそう言いはじめたのは、そう昔のことじゃなかった。昔は、なにも言わずにただ泣いていただけだったんだ。なにが悲しいのか、俺にももちろん両親にもわからなかった。だからといって暴れるようなこともなかったから、まさか病気がそうさせているだなんて思いもしなかったんだ」
怜は煙草を喫いたくなっていた。聞いていてあまり気持ちのいい話ではなかった。しかし聞かなくてはならない、そう思った。怜はずっと気になっていたのだ、地雷原をさまよっているようなはかなげな表情で中庭にいた鳴海のことが。
「気がつくのが遅かった。ただ、敏感なだけだとみんな思っていたから。俺たちが気にならないことを鳴海は感じて、それで泣いていたんだと。でも違った。
ある日、あれは鳴海が中等科に上がったか上がらないか、そのくらいだった。俺が部屋をのぞいたら、あいつは椅子に座ってほうけたような顔で外を見てた。『どうかしたのか』って訊いたら、ぼそっと言ったんだ、『わたしひとりだったら、つらくないのに』ってね」
誰とも群れず、ひとり中庭をさまよっていた鳴海。夜、水の底のような待合室で、自動人形みたいな危うさを身にまとっていた彼女。
「『なんのことだ』って俺は訊いた。久々だったんだ、鳴海としゃべったのが。もう何ヶ月も口をきいてくれなかった。俺だけでなく、両親ともね。あいつには友達がいなかった。いま思えば作ろうとしなかっただけなんだ。だから学校に通っていても、ただ通っていただけだった。そのことは俺も知っていた。心配もしていた。けれど何もしてやれなかった。どうしてそうなのか、わからなかったから。ガラス細工みたいだったんだ、ちょっと乱暴にあつかえば砕けて散ってしまう」
怜に投げかける隆史の言葉は、初対面の人間に放るには少し思い。なぜそんなにしゃべるのか。怜はずっとポケットのライターを指先で感じながら、少年のような声でしゃべりつづける隆史の存在を感じていた。