夏の扉
怜はできるだけ低い声で、稲村に応えた。
長袖のジャケットではもう、暑い。夏が来た。にぎやかだった、夏が来た。
二八、空と海
緑の海に白い飛行機が着水する。ふわり、と。凪いだ海の上で飛行機は翼を波に浸し、吹く風に機体を震わせていた。怜は足元に降りた白い飛行機を、そっとひろいあげた。紙飛行機だ。くっきりと折れ込まれていて、つくり手の性格がうかがわれる。怜は振り返って<施設>の屋上を見上げた。コンクリートのフェンスに両肘をついて、男がこちらに手を振った。鳴海の兄、隆史だ。
翼の折り目に描線を見た怜は、紙飛行機を広げた。さらりとした鉛筆画がそこには描かれていた。遠くに山並み、緑地、芝生、イチイの樹、二人の人影は怜と稲村。流れるようなタッチで、細い描線とメリハリのある色。もちろん鉛筆画だから単色なのに、きっちりと陰影が描きだされていた。
隆史は中庭を見下ろし、じっとしていた。鳴海の姿は見えない。怜が解体した彼の飛行機をかかげてみせると、隆史は軽く手を振った。上がってこい、そう言っているようにもみえた。彼のすぐうしろで、三連の風車がまわっていた。空に染まったプロペラだ。
「うまい絵だ」
気がつくと稲村が立ちあがっており、怜の手にある絵をのぞきこんでいる。
「屋上、上がれるんですね」
怜が訊く。
「ええ、誰でもね。乾燥機はあるけれど、洗濯物は屋上で干していますからね」
隆史はなにも言わず、中庭を見下ろしている。怜が屋上へ上がってくるのを待っている、そんな表情だ。
「どこから上がるんですか」
「ふつうに階段を上がった右手に、扉があったでしょう。そこが屋上への階段室ですよ。鍵もかかっていない、いつでも上がれます」
談話室に上がる階段、その右手。のっぺりとしたドアはたしかにあった。まだ正午までは時間がある。ほぼ真南には太陽。そして、屋上にも太陽がふたつ……不思議と隆史の目は、これだけ距離があっても光が見える。見上げる怜に、隆史はもういちど手を振った。いままさに岸壁をはなれようとする船の乗客が、港で別れを惜しむ見送りの誰かに手を振るように。怜は本当に自分がいま港に立ち、隆史を見送っている気分になっていた。見送るって? どこへ? 彼と会ったのはきょうがはじめてた。怜は足元にしっかりと芝生が存在しているのを確認したが、不意にそれは緑色の波に変わる。腐敗した水もこれによく似た色だった。一瞬のフラッシュ・バック。目を閉じ、怜は頭を振る。そしてすばやく顔を上げた。<施設>の白い壁が陽を浴びてまぶしい。まさに接岸した船の舷側だ。深呼吸。
右手に持ったままの隆史の絵を開く。紙飛行機だった折り目を伸ばし、四つにたたもうとした。再度、彼の流麗な筆致が目につく。モノトーンなのに、カラフル。それは隆史の「世界」だ。たった数瞬を彼は紙の上に取り込んで再構築し、出力してしまった。素粒子まで分解され、そして鉛筆で描かれた「世界」には自分が、怜が立っている。彼の「世界」に自分も取りこまれて、風景の一部として存在しているのだ。隆史の声が聞こえてきそうだった。彼に、自分の心を読まれたような気がした。
稲村は怜はまだ境界に立っているのだと言った。二つの世界があるとするならば、その中間に自分は立っている。しかし隆史は稲村の言葉を無言で否定してしまった。そう、隆史の絵には「すべて」が描かれていた。もちろん再構築の段階で抽象化、簡素化されてはいるのだが、しかしそのおかげで見えないものまで見えてくる。散らかっていた部屋をかたづけ、ずいぶん探したのに見つからなかった探し物がでてきたかのように。もっと的確なイメージは、モニターに映し出されたなにものかわからない映像を、アプリケーションでノイズを除去し、荒れた走査線がクリアになっていくような感覚だ。
<施設>の屋上からは、旧市街が見渡せる。荒れ地に点在する送電塔も見える。手稲山も見える。もちろん画面奥には、新市街を望む。<団地>だ。
怜は旧市街と新市街、そして<施設>がともにフレームにおさまった絵を見るのははじめてだ。手前の芝生には自分も描かれ、二つの世界はみごとに共存していた。いや共存ではない。もともと境界などないのだと隆史は言っているに違いない。そのことに怜は愕然としていた。ならぶ送電塔は、前世紀の墓標のごとく茫漠としていた。かなたに見える新市街、<団地>も怜には墓標に見えた。新市街の手前に広がる旧市街は、さながらぶちまけたおもちゃ箱だ。いままでそんな視点で街を見たことはなかった。なんということだ、自分の目もすでにレンズだったのだ。しかし隆史の目は「生きて」いた。怜の頬をこめかみからつたった汗が一筋流れた。頬から顎へ、そして芝生へ。自分のかけらがこぼれおちていく。落ちていく自分をひろうことはできなかった。
そうか、自分も世界の一部だったのか。急激に変化していく、この世界の一部だったのか。そうなのか。
怜は紙のキャンバスから顔を上げ、舷側に立つ隆史の顔を向いた。真横から日が射していて、隆史の顔は陰影がくっきりしている。妹の鳴海より、彫刻めいた顔立ちだ。一重の瞼は共通パーツか。怜は腕を上げる。重い。これほど自分の腕が重いなんて。右手が動かない。
そうか、絵だ。
隆史の絵だ。
「世界」を閉じこめた紙のキャンバスは、だからひどく重かった。それで腕が上がらない。それでも怜は懸命に手を振った。そこに行ってもいいだろうかと、うかがうように。
怜は、彼と話しをしたかった。
暗い。陽光にまばゆいばかりの中庭から<施設>に戻ると、暗さばかりが気になった。瞬かない蛍光灯は青白く、人がつくりだした灯りはよそよそしい。怜は隆史が描いた絵を片手に、リノリウム張りの床を歩む。待合室、壁の掲示、ベンジャミン、受付からはキーボードを叩く音。そして左手に階段。明かりとりの窓から真っ白い光が怜を射る。思わず目を細める。一段、一段踏みしめてのぼる。二階への折り返し、踊り場でいったん振り返る。一階の床は微かに波打ち、それが古い水路の水面ように思わせる。そして二階へ。談話室は蛍光灯の灯りがなくとも明るかった。窓際にはあの読書青年。壁際では明日香と真琴が顔をつきあわせて笑いあっていた。怜が二階にあがってきたことには気づいていない。明日香はこちらを向いて椅子に腰掛けているのに、怜を見ようともしなかった。彼女たちのまわりには何もないのだ、きっと。真ん中あたりのテーブルには白髪の背中が見えた。片手にはマグカップを持ち、外を向いている。老婦人だ。彼女の背はなにかをつぶやいているようだったが、怜には聞こえなかった。
階段を上りきった右手に、ドア。この扉だ。スティール製の重いドア。ノブをひねり、手前に引いた。すると何の抵抗もなく扉は開く。風が流れていく。階段室には一列に蛍光灯が並んでいて、それが交互に点灯していた。コンクリート製の味気ない階段だった。狭い。そこをのぼる。靴音が意外に響く。のぼったところに一枚のドア。まるで耐爆ドアだ。さもなければエア・ロック。研修で一度だけ訪れた環境省の施設に、そんな設備があった。ものものしい防護服を着なければ入室できない、分析室だ。