夏の扉
「思いどおりに行くはずがない」
「ええ」
ふと気づくと、稲村は机上に置かれたファイルに、こちらを向いたまま、さり気なくペンを走らせていた。電話中、手元のメモ用紙に無意味な落書きをしている、それに似ている。
「冷めちゃったんです。多分。僕はもう、結構昔からそういうところがあったんです」
「『熱しやすく冷めやすい』、そういう感じですか?」
「ええ、そんなところです。なんだかそう思ったら、あれほど格好よく見えていたカタログの写真もね、うそくさい、まがまがしいもののように見えてしまって」
「ははぁ」
「それで、やめました」
目障りなものをくずかごに捨てるような口調。怜は足もとに目線を落とした。稲村の白衣が、かすかな衣ずれの音を立てていた。
「なんだか、のべつそういう感じです。すぐに冷めてしまうというか。見えちゃうんですね、うまくいかない様子が」
「でも、やってみなくちゃ分からないな、ひょっとしたらうまく行くかもしれないな、そう考えることもあるわけでしょう?」
ペンを走らせる音が消えていた。見ると稲村は、柔和な表情を怜に向けている。最初感じた、小学校の教師が駄々をこねる児童を大きな手で包むように、そっと諭すような表情を。
「思うことはあります」
稲村はまた指を組んだ。これが彼のスタイルだろうか。
「思うんですが、でも、やっぱりだめなんですね。仕事のせいかもしれない」
「仕事の」
「はい」
長い休暇がはじまってしまった。その言葉がまた聞こえてきた。意図せずとってしまった、終わりの見えない休暇だ。
「僕の仕事は、……、言ってみれば世の中の絶望を拾い集めたり、確認するようなものだと思っています」
稲村は黙ってうなずいている。受付で提出した紹介状には、怜のこれまでのカルテのほか、簡単な略歴も添えてある。前の担当医が、その方が役に立つと進言した結果だ。だから稲村は怜の職業を、正確にいうと、先週まで彼が就いていた仕事のことを知っているはずだ。
「お前は考えすぎると、同僚に言われたこともあります。自分たちはただの機械なのだから、黙ってデータを集めていればいいのだと。でも、ああいった光景を毎日、うんざりするくらいの証拠を突きつけられれば、自然、誰でもこうなるとは思いませんか?」
怜が言い終わると、稲村は居ずまいをただし、指を組み直した。
「あなたはさっき、『見える』と言いました。『うまく行かない様子が見える』のだと。それは畢竟、あなたの仕事にも関連して、『見えて』くるのでしょうか?」
廊下を誰かが歩く、すり足のような音が聞こえた。スリッパか。だったらきっと、ここの看護婦に違いない。
「そうかもしれません」
顔を上げ、稲村を向く。先ほどまでの表情が、心なしか締まって見える。小学校の教師から、医師の顔へ。
「普段はまったく意識してません。いや、考えないようにしているのかもしれません。しかし、仕事をしている間は、いやでも現実を突きつけられます。このままでは、もう、だめだと。僕のことではなくて、この世界が、ということです」
「なるほど」
「一度そう思ってしまうと、何をしてもだめなんだと、冷めてしまうんです。先ほど先生のおっしゃったとおりです。きっと僕の仕事と関係しているんだと思います、僕がこうなってしまったことは」
怜が言うと、稲村はまた目尻がほころんだ。
「決めつけてしまうのは簡単ですし、また早いと思いますよ。実際あなたの仕事と、あなたのその、『冷めていく』感情は関係しているかもしれない。しかし、関係していも、切り離すことはできるかもしれない。どうでしょう?」
「そう、でしょうか」
「それを、これから考えるんですよ、白石さん」
稲村はこれまで以上に穏やかな笑顔を、怜に向けた。背後に、またオルガンの音が、今度ははっきりと流れているのが聞こえた。
三、カモメ
賑やかで焦燥に満ちた時代は、黄昏を迎えつつある。かすかな寂寥とともに茜色の空が夕闇に飲まれていく、そんな黄昏。まるでフェードアウトだ。怜は一時間あまりの診察を終え、<施設>をあとにした。空は目の曇りがとれたあとのようにすっきりと晴れていた。霞はもう残ってはいない。頬を暖かな風がなでつけていく。はっきりと潮の匂いがする。そう、去年よりも、おととしよりも、海岸線は近づいている。ここが波打ち際に変貌するのも、きっとそう先の話ではない。
防風林沿いの道を電停へと歩く。とぼとぼと。セイタカアワダチソウが海風に波立っていた。立ち止まり、目を細める。荒れ地は地平まで続いているようだが、わずか数キロ先はもう海だ。あれは地平線ではない、水平線だ。かつて人で賑わった砂浜など、とっくに水没してしまった。今渚に立っても、いや立つことができるならば、そこは荒れた沼地だ。潮を浴びて立ち枯れた樹々、濁った水面は、ありとあらゆる分解されない浮遊物でいっぱいだ。
彼は環境調査員だった。時代がゆっくりとフェードアウトする様を、まさに最前線で見守ってきたのは彼の目だった。そう、見守るほかすべはなかった。何もかもが彼の、彼らの手を離れ、かってに事態は進行していたのだから。
この世紀の初め、十一月には初雪の声が聞こえた。春は四月にならないとやってこなかった。それがどうだ、クリスマスを過ぎても雪は降らない年がある。タンポポの季節はその頃よりも一月以上駆け足でやってくる。厳冬期に雨が降ることもめずらしくなくなった。たった数度の気温の上昇など、この惑星にとってはエアコンの設定を変えるくらい些細な事象に違いない。これまで、海面は高さの基準だった。ゼロメートル。ゼロは年々上昇しはじめた。海岸沿いの街はすでにいくつも飲まれてしまった。水没した地域、島、国、そんなニュースも珍しくなくなった。それだって、長い時間をたどれば幾度もくりかえされてきた過去のできごとに違いない。だからこそ、彼は、彼らはなすすべを持たなかった。ゆるやかな坂道を下るように、環境は変わりつつある。声高にそれを糾弾する声はもう聞こえない。もう、何もかもが手後れだった。あとに残ったのは諦め、一言だった。
怜は思い出す。同僚とともに入ったぬかるむ湿地を、かつて街だった広大な沼地を。住民が去り、取り壊され捨てられた街は干潟になっていた。水鳥が貝や小魚をついばんでいた。数年前まで子どもたちが駆け回り、大人たちが家路を急いだであろう風景を、怜は観測機器を抱いて呆然と眺めていた。信じがたいほど平和で、慌ただしさも猥雑さもかけらもない景色だった。怜にとっての絶望は、水鳥たちにとっての絶望と同義ではないらしかった。海岸線はゆっくりゆっくりと迫ってくる。このままでは、自分の街を象徴する白亜の時計台が波に洗われるのも、そう遠い未来のことではないだろう。