小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

夏の扉

INDEX|38ページ/125ページ|

次のページ前のページ
 

 大人たちが騒いでいたのは知っている。しかし、なんのことだか怜にはさっぱりわからなかった。それより友達と脚の数がおかしなエビやカニを探すことのほうが大事だった。畸形化した魚やカニがその頃、増え始めていた。海へ行けば、十匹に一匹はおかしな形の魚やカニがいた。怜は友人たちと競ってそれらを集めた。家に持って帰っても、両親は獲物受け取ったきり食べようとはしなかった。畸形化した生物を集め、海辺を歩くこと。それがやがて自分の仕事になっていくなどとはまったく考えてはいなかった。有害物質の影響を受けた生き物たち以上に、放射能に汚染された魚たちは見るに耐えられなかった。ひどいありさまだった。人間に影響がないとは思えなかったが、怜は想像できなかった。悪い夢だと何度も声に出してつぶやいた。
「わたしも一時期街を離れましたよ。けれど、メルトダウンしたわけではなかったから、半年もすれば戻れた。でも海岸は全部立入り禁止になっていたよ。軍や環境省の車輌が封鎖していてね。夏になれば友達と海に出かけて、一晩飲み明かすのが恒例だったのだが、そんなこともできなくなった」
 稲村にもそんな「学生時代」があったのか。にわかには信じられなかった。稲村はずっと昔から「稲村」で、<施設>で白衣を着ている稲村以外は想像できない。
「ひどい時代だと、そのころは思っていた。けれど、それが当たり前だと思えるようになれた人間は、街に住めた。でもわたしはそう思えなかった。当たり前じゃない、このまま『黄昏』を過ごしていくのはつらい。つらすぎる。そう思うと、もうだめでしたね。だから、ここに流れついてしまった」
「僕にとってはこれが『普通』ですよ。それがついているのかそうじゃないのかは知りませんけどね。<機構>がしゃしゃり出てきて、世の中ががらりと変わったなんて、僕には何の関係もない話だ」
「変化をリアルタイムで体験しているのに?」
「子どもでしたから」
 怜は少々なげやりに言った。稲村は怜には応えず、しかし表情が消えた。
「良くも悪くも、ここは流刑地みたいなものだ。流された。……何からって、時代から、かな。止まっているんですよ、ここはね。移ろう時間に、この場所は乗っていかない、だから最初は居心地がいい。街に住めない人間にとってはね。けれど、どんどん離れていっているんですよ、街とはね。白石さんは、まだ街の人間だ。ここに残ることはない、まだ戻れるんだから」
「戻ったほうがいいんですか?」
「海に投げ出されて、羅針盤も海図ももちろんGPSなんてしゃれたものもなく、どんどん流されていくのでよければね。それがいいのなら、残ればいいんです。わたしは何も言いません。しかし、どこに行きつくのかというと、どこにも行けない。そこにとどまり、離れていく陸地をぼんやり想像するしかない。そのうち、陸のことなんか忘れてしまう。この島には真水が湧くんです。この水を飲んでしまったら、身体が水に慣れてしまったら、もう、戻れない。あなたはどちらを選ぶのか。……そう、選ぶのはあなただ。ここにいる人たちはみんな選んだ。ここに残ることをね。あなたは、どっちですか」
 稲村は一歩、一歩と芝生を踏みしめ、怜に歩みよってきた。穏やかな表情で。
「即答、しなくてはいけないんですか」
「そんなことはない」
「僕には、まだわからない」
 怜は胸ポケットの煙草を探った。しかしここでは喫えない。そのままパンツのポケットに右手を突っ込んだ。ライターが冷たい。
「あなたは変わりつつある、と思う。いや、境界線に立っているんだ。戻ろうと思えば戻れる。まだ陸地が見ている。そんな位置です。どうですか」
「僕が、変わっているって?」
「変わっているんじゃなかったら、元に戻っていっているのかな。それを病気が治っていく過程だともいえる。でも、どんな病気も治りかけがいちばん危ない。リハビリテーションが必要です」
「治ってきているんですか、僕は」
 芝生に目を落とす。細く、まるで動物の毛皮を敷いているような質感だ。
「さあ、どうでしょうね」
 稲村は両手を開いて微笑んだ。
「あなたは閉めきっていた部屋に吹き込んだ風だ。わたしははじめてあなたに会ったとき、思いました。ひさしぶりに外の人間に会ったからなのかもしれない。でも違った。なぜあなたがここに、<施設>に送られて来たのかは正直いってわからない。あなたは環境省の人間だった。それはつまり<機構>の一員だったということだ。いや休職中なんだから、現在形ですね」
「下っ端ですよ」
「わたしから見れば立派な構成員だ、あなたは。だから、勘ぐれば<機構>があなたを送りこんできたのかもしれないとも思った」
 稲村はしゃがみこみ、そして芝生に直に座ってしまった。怜は立ったまま、稲村を見下ろしていた。黒々としている髪には、数本の白髪が見えた。
「何のためにです」
「ここは<機構>の息がまったくかかっていない。だから時間が止まっているんです。街に住めない人間が流れつく場所だ。みんな、ここがなくなれば居場所がない。いわば社会不適合者の収容所だ。<機構>がそれを面白く思っているはずがありません。そこにあなたを送りこんで、つまり風を吹きこませて……」
「どういうことです、言っている意味がよくわからない」
「風が吹けば、風邪をひく人間もいるかもしれない。風邪が治る人間もいるかもしれない。……そういうことです」
「僕は、何も知らない。具合が悪かったから、ここに来ただけです」
「おそらくそうでしょう。わたしの考えすぎだ」
 稲村は自嘲した。低い笑い声が優しい。
「けれど、あなたが停滞していたここに吹き込んだ風だというのは、かわらない。何年かぶりの外来だ。人が増えても減ることはなかったのに、あなたはここと街を行き来している。あなたが通うようになってから、みんな動揺しています。露骨に避けているひともいますし、興味を持っている人間もいる。それがいいことなのか悪いことなのかはわかりませんけどね」
 稲村は芝生の上にあぐらをかき、気持ちよさそうに目を細めた。怜は、稲村が誰のことを言っているのか、なんとなくわかっていた。冷ややかに拒絶、白い肌、真水。彼女だ。
 中庭で怜、鳴海、彼女の兄の隆史と三人、風車を見上げていた。鳴海が怜の前ではじめて声をあげて笑った。隆史も微笑んでいた。ふた筋の風に吹かれて、鳴海は笑ったのだ。そのとき怜は雪解け水のせせらぎを聞いたような気がした。いや、水滴が零れおちる音か。廊下の端から稲村が怜を呼び、鳴海と隆史を残して中庭を出た。舞台に突然上がってしまったエキストラは、そっと退場しなければならない。よけいなアドリブを吐いてしまったから、なおさらだ。舞台から袖の暗がりへ、廊下へ上がった怜は、そっと振り返って主演のふたりを一瞥した。ひとつの物語が終わり、現実へと帰っていく旅人を見送る幻想世界の住人のように、鳴海と隆史はストップモーション。プロペラが風を切る音が、怜を追い立てていた。拒絶なのか、緩やかな変化か。鳴海の表情はぺらっとしていて複雑で、怜にはよくわからなかった。
「もう、夏だ」
 芝生に座ったままの稲村がぽつりと言った。ふたたび舞台に上がっているのは自分と稲村……本日第二幕。
「夏ですね」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介