夏の扉
嘘を言った。夢は見ている。ただ、悪夢なのかそうではないのか、怜には判断がつきかねていたから、言わなかった。
「体調がいいんでしょう。もともと夢を完璧に記憶している人なんていませんよ。記憶の固定化とか定着とでも説明すればいいのかな、いったん見た夢はずいぶんとあやしく頼りないイメージでしょう。例えば印象に残った夢などは、目が覚めたあとでそう、思い起こして強化するんです。忘れないようにね。でも、人の記憶のシステムはあいまいだから、いや、もちろんそのあいまいさがあるから、ほぼ無限に記憶できるように感じることができるんですけど、そのあいまいに憶えている記憶を強化するときに、どうしても脚色してしまう」
稲村は話好きな学校の先生のように、すっと身をのりだし、怜に語りかけていた。
「脚色をしてしまうから、パズルのかけらのように断片化された夢でも、まるで映画のように、ひとつの物語になったりするんですよ。それは意識的にやっているときもあるし、無意識なのかもしれない」
夢を憶えていない、のではなくて印象的な夢を見ていないということなのか。そうなのか。
「前に、誰でも眠れば必ず夢は見ているのだと言っていましたよね」
「原則的にはね。見ているはずだ、というだけですよ」
「でも、憶えていないときは、『見ていない』と思ってしまう?」
「そんな感じですね」
夢は、見ていた。見ていたけれど、反芻はしなかった。だから、うるおぼえで、霞の向こうで明滅しているスクリーンのような、それはけっして物語にはなっていなかった。バラバラのかけらだ。ひょっとしたら自分は、そのかけらをすべて拾い集めるのが面倒なのかもしれない。だから、つながらない。
ちょっとした間、風、光、ヒナゲシ、稲村、そして怜。
「悪い夢を見て、眠れないということは、もうあまりないんですね」
稲村はミルクの瓶を取り上げ、ヒナゲシの花を指先でつついた。瑞々しい。摘まれたばかりだ。でもいったいどこにこの花は咲いていたのだろうか。秘密の花畑でもあるのか。電停からこっち、咲いている花はハンゴウソウやタンポポ、ハマナスと、頑丈な花ばかりだ。ヒナゲシの花畑など、このあたり、いや、新市街や旧市街のどこにも見たことはなかった。誰の傷が染めたのか、花弁は鮮やかだ。
「悪い夢は、見ていないですね」
「それがいい」
「ええ」
瓶を戻す。中の水は澄んでいる。真水だ。H2O。
「じゃあ、きょうはこの辺で。次は、火曜日ですね」
「ええ」
「薬は二週間分処方しておきますよ、きょうもね」
「わかりました」
稲村はちいさく「よし」とつぶやき、怜に別れを告げようとした。が、なにかを思い出したかのように動きを止めた。
「白石さん」
椅子から腰を浮かせて、怜もまた止まった。
「はい」
「あなたは、『休職中』ですよね」
「ええ」
「仕事には戻りたい?」
首だけを怜に向け、医師はヒナゲシの花弁をさきほどのように指でなでていた。怜はとうとつな質問に、答えあぐねた。いつかは訊かれるのだろうと思っていた。しかし、早い。
「環境調査員に」
怜は浮かせた腰を座席にもどした。
「……、もうもどれるんですか?」
「あなたしだいかな」
「では、もうここにも来なくていい?」
「来たくないですか?」
稲村は視線をヒナゲシに。
「そういうわけではないですけど」
怜が言うと、医師はなでていたヒナゲシをひとさし指ではじいた。すると赤い花びらが一枚、机に散った。
「まだお昼には時間がある。出ましょうか」
散った花びらをつまみあげ、顔の前にかざす。かさぶたが一枚、はがれた。
「散歩……ですか?」
「そんな大げさなものじゃない。中庭にでも出てみましょう、ここよりは気持ちがいいでしょう。話もしやすい」
言うが早く、稲村は席を立った。散った花びらは胸ポケットに。誰の傷だろう。
「すぐに帰りますか?」
稲村が問う。怜は否定する。
「じゃあ、決まりだな。といっても、すぐそこだけれどね」
怜に退室をうながし、自分は白衣を脱いだ。きょうの稲村は濃い水色のシャツに紺色のネクタイをしめている。怜はいつものジャケット。
稲村が先に部屋を出る。つづいて、怜。
「ドアは開けたままでいいですよ」
閉めるつもりもなかった。なのに稲村は言った。
彼も、<施設>の人間なのだ。
二七、舞台
プロペラが回っている。三連の風車。空は紺色に近いくらい青く、この時季としては色が濃い。季節がおかしくなりはじめて、空の色もころころ変わるようになった。怜は稲村のあとについて中庭に出、靴の下にやわらかい芝生を感じながら、流れていく雲を見上げた。雲は一方向に流れているのではなく、上下し、左右し、生れたり消えたり、いっときとして同じ姿にはとどまらない。
「空が気になりますか」
少し離れたところから稲村の声。
「仕事をしていたときは、こんなふうに空を見上げたことなどなかったので」
「環境調査の仕事には、空は入っていなかったのかな」
「僕の部署は違ったから。それに、僕は空を飛ぶのが好きじゃないですから。僕の仕事は、沈んでいく地域の調査ですよ。沈んだ場所の調査も。砂浜がどれくらいのスピードでなくなっていくのかとか、水質の汚染状況とかね。放射線量を測ったこともあった」
稲村も空を見上げていた。
「発電所が事故を起こしたとき、わたしはまだ学生だった」
「海岸線にモニタリングポストもあるんですが、実際に海に入って定期的に計測しているんです。無意味なのにね、半減期がどれくらいだか知っていますよね、何千年何万年単位だ。うんざりですよ、人が住めるようになる頃には、もうすっかり魚たちの団地になっているわけです」
<施設>の壁に自分の声がぶつかって、帰ってくる。ぶつかった声は四方に散って、それが空に向かって飛んでいく。
「発電所が事故を起こして、街中から人が消えたことを、まだ憶えてる。考えられない不幸が重なって、起きた事故だってね、テレビでは言っていた」
稲村は空を見上げ、目を閉じているようだった。
「あんなものを海沿いに作るからです。海が上がってくれば水没するのは目に見えているのに」
「七回目の大高潮のときでしたね、事故が起きたのは。あなたは憶えてますか」
海水位上昇、海水温上昇、地球平均気温の上昇、異常気象、台風の大型化。それらが重なって、何度か大高潮が発生していた時代。大雨、強風、そして波。フェイルセーフ機能が働かず、発電所は暴走した。水没、そして……。
「僕はまだ小学生だった。だから、憶えていません」