夏の扉
「白石、怜」
怜は<施設>の人間を真似て、ぶっきらぼうに名乗った。歩みを止めて、彼の鋭い瞳をまっすぐに見た。
「綾瀬、隆史」
やはり、彼の目は太陽だ。妹の肩にもういちど、手をのせた。
怜は二の句をつがずに歩き出す。これほど中庭に進出したのははじめてだ。兄が「立派だ」といったイチイの樹のそばまで歩むと、<施設>を背景に立つふたりが見える。鳴海の兄は、稲村よりもずっと、カウンセラーのような雰囲気があった。
怜は彼らから<施設>の二階へ、そして雲が浮かびかたちをかえていく空へと首を動かした。プロペラの音が耳に飛んでくる。
「……、風力発電だったのか」
怜の視線を追い、怜の言葉をつかまえて、鳴海が首を向けた。
三連風車。屋上に、みっつ。背も高くなく、大きさも市の外れの原生林地帯に建つものとはくらべものにならないが、しかしプロペラは小気味よく回転し、風切音がペースを刻む。なぜわからなかったのだろう。よく見ると、三枚ずつあるプロペラは、空色に塗られていた。空に溶け込み、空を切り取るプロペラ。そうか、きっと最初、プロペラは白かったに違いない。回るうち、空をつかんだプロペラは、いつのまにか染まってしまったのだ、空色に。怜はそう考えて、苦笑をもらした。かわいいイメージじゃないか、どうかしたのだろうか自分は。
「どうしたんですか?」
鳴海の声は近かった。首を戻すと、ふたりがそばまで寄ってきていた。
「綾瀬さん、何であのプロペラが青いのか、僕は知っていますよ」
もうひとりの綾瀬、彼女の兄も怜を見据えていた。
「……どうしてですか?」
怜は一呼吸おいた。
「空に、染まったんでしょう、きっと」
「空に?」
「ええ、空に。回っているうちに、染まっちゃったんですよ、空色にね」
怜が言うと、鳴海の切れ長な目が細くなった。笑ったのだ、彼女は。鳴海の喉の奥から赤ん坊が笑ったときのような声が流れる。こぼれて、彼女を離れたとたんに気化して、もうひとりの綾瀬と、休職中の環境調査員にも笑いは伝播した。
「おかしなことを言うんですね、白石さん」
「つまらなかったかな」
「いえ、……意外だったけれど、いいわ、それ。そうか、空に染まっちゃったんだ」
鳴海はまだ笑いつづけていた。彼女の兄も笑っていた。妹の肩越しに、ひかえめな微笑みが怜を向いていた。
怜はもういちど、屋上のプロペラを、空に染まってしまった青い九枚のプロペラを見上げた。
砂浜の記憶はしまいこんだままわからなくなってしまったけれど、いいじゃないか、きょうは空に染まったプロペラを見つけたんだから。
見上げ、風車の回転を数えながら、怜は鳴海の笑い声も聞いていた。
それは、けっして耳障りではなかった。
二六、傷
ミルクの空き瓶には、ヒナゲシの花。赤と、白。丘を埋めつくすヒナゲシの大群落を昔見たことがあった。けれど、机の上にたった一輪咲く花も、怜はいいと思う。可憐でかわいらしい。稲村はクリップボードにはさんだカルテに左手で何かを書きこんでいる。彼の背後の窓は開いていて、風が吹きこんで気持ちがいい。怜は診察室に入るとき、ドアは閉めなかった。意識した。だから、風が吹きぬけていく。
「きょうは、外の人が多いですね」
ひととおりの問診を終え、カルテに走らせていたペンをそっと置くと、稲村は怜を向き、言った。
「どういうことですか」
怜は聞き返した。
「あなたに、彼。会ったんでしょう、綾瀬さんのお兄さんです」
中庭で三人、不思議な時間だった。鳴海が笑っていた。自分も笑っていた。初対面の彼、隆史の、紺色の瞳が印象的だった。
「風通しがいいのは、悪いことじゃない」
稲村はひとりごとのように言った。風通しか。彼が風か、自分もそうなのか。
「長くしめきっていると、よどんでしまうでしょう。それは、いいことではないですからね」
<施設>のことを言っているのだろうか。「医師」である稲村らしからぬ言葉に、怜は視線をはずし、ヒナゲシの花を観察することにした。鮮やかな赤は、殺されたものから流れ出た血が染めた色だと、そんな言い伝えもこの色を見ればまんざらでもなく感じる。鮮やかすぎるのだ、この赤は。はたして自分の体を流れている血は、どんな色だろうか。鮮やかなのか、それとも淀んで濁った色だろうか。鳴海のあの透明なくらい白い肌の下にも、ヒナゲシの赤にも負けない色の血が流れているのだろうか。考えたが、別に知りたくもないと、怜はイメージを打ち消した。
「それにしてもいい風だ」
稲村はワークチェアに深く腰かけ、背中をあずけた。ヒナゲシの花が揺れる。流れ出た血がいつか固まってその下の傷が治っていくように、この花もいつかは色褪せ、枯れる。そのときに治る傷は、誰の傷だろうか。
「その後、どうです? 顔色はいいから、夜はぐっすり眠れてますか?」
さきほどの問診でも訊かれたはずなのに、稲村は今度、世間話でもするような口調で切り出した。なにかの意図を感じた。
「なんとか眠れてますよ。薬が効いてるって感じも別にしないんですけどね」
「ちゃんと飲んでいるんでしょう?」
「ええ、それは」
「ああいう薬はね、ちゃんと飲みつづけなければいけないんですよ。ちょっと調子がいいからといってやめてしまっては、もとのもくあみになってしまうんです」
日課、という言葉に怜は強かった。だから、指示されれば納得し、したがう。タブレットを一日二回服用するのは、もう習慣になっている。
「ちゃんと眠れるようになったのは、本当にいいことだ。このあいだも訊きましたけど、ずっと変わりなく?」
「ええ、それが薬のおかげなのかなと思ったりもするんですけど、まぁ、ちゃんと眠れるのは楽ですね」
稲村が処方したタブレットを最初飲んでベッドに入ったとき、この薬は思考を焼く効能があるのだと感じた。何も考えることなく、眠りにつけたからだ。怜は、ひとにはそれぞれ、映像を記録し反芻することができるレコーダが組み込まれているのだと思っていた。それはいまでも変わらない。ただ、意図するものが再生できるか、それとも自動的にレコーダがてんでな映像を再生するのかは、またひとそれぞれだ。怜のレコーダは壊れていた。かってな映像を再生し、なければつくりだし、それをベッドについた怜に見せつけた。意識が無意識に向かって疾走をはじめるとき、レコーダの映像はやがて「夢」と名前が変わるのだ。そして、無意識の深淵に加速する意識は、「終わり」へと落ち込んでいく。
「終わり」。
そうか、あれが僕が見ていた「終わり」なのか。
「眠るのは大切なことなんですよ。身体を休めるだけではなくて、脳を休めることでもあるんです。脳は意外と疲れるんです。疲れるというか、眠ることで起きているときに使う物質だとかを生産するわけですよ。だから、眠らないと、壊れてしまう。
まあなんにせよ、いいことだ。悪い夢を見ることも減ったんですね」
「それが、憶えてないんです」
「憶えてない?」
「ええ、ベッドに潜り込んで、僕はいつもあれこれ考えながら寝ることが多いんですけど、そのまま眠ってしまって、気がついたら朝になっていることが、最近は多い」