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夏の扉

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 鳴海は眠りを懸命におさえているような緩慢な動作で、うなずいた。
「そうか。……りっぱなイチイだ」
 ポケットに両手を突っ込んで、<施設>の前でしていたように、彼は鳴海の背後の樹をあおぐ。黒いまでに葉が繁る、針葉樹を。鳴海はまだ、膝をついたまま。穏やかな風、白い太陽。彼の髪は日を浴びると亜麻色に透けた。
「元気そうだ。安心したよ」
 彼が言う。妹に手が触れられるほどに歩みより、軽く足を開いて立ち止まる。妹は瞬きをしない。
「お兄ちゃん」
 ようやく彼女の口から出た言葉。少し掠れて、怜の耳にはほとんど聞こえない。
 怜はポケットから本日三本目の煙草をとりだしてくわえた。火を点けようとしたが一発で点火しない。四度目で火が点いた。オイルライターはいつだって大きな音をたてる。悪い観客だな、怜は思う。「主演」のふたりの邪魔をした。まちがいない、いま自分は観客にすぎないのだ、舞台に上ってはいない。
 三本目の煙草はヤニの臭いばかりが残って不快なだけだ。こんなとき、稲村の呼ぶ声が聞こえない。怜は三分の二ほど喫って灰皿にもみ消した。煙草の頭はしばらくくすぶり、風になびく白色のリボンのような煙をぼんやりと立ちのぼらせていた。怜は背もたれに深く身をあずけ、両腕を天井につきだし伸びた。脱力。身体が知らないうちになまっている。身体は疲れていないのに、疲れ果てている。どういうことだ、働いてもいないのに。時代の最先端を、脚にからみつく泥濘にうんざりしながらのたうちまわっていた頃より、時代からとりのこされたここにいるほうが、じつは疲れているのか。
 「芝居」は続いていた。
 ふたりの立ち居振舞いは、やはり、芝居がかっていた。怜にはそう見えた。おたがいに抑制をかけ、本音は深く胸の奥へ閉じこめて。彼のことは分からない。鳴海はたしかにそう見える。大事なものは金庫の中へ、幾重にも施錠してしまっておけばいい。そのうち合わせ番号も忘れてしまう。二度と開けられない記憶のカケラたちは、そうしてどこかへ葬られていく。
 怜はふと気がついた。
 鳴海の拒絶、嵐に飛び出していった彼女。きっと鳴海はここへ来たとき、「大事な」なにかをもうすでに胸の奥底へ閉じこめてしまっていたに違いない。「大事な」なにかだ。新たに「大事な」なにかをしまいこもうとしても、もう番号は分からない。金庫の鍵はみずからが壊してしまった。合わせ番号を忘れてしまう前に、自分で。そしてときどき胸の奥がうずく。なくした「大事な」なにかを取り戻したくて、うずくのだ。もう扉はみずからの力では開けない。なにかしまいたいものがそこにあっても、もう入れる場所がない。だから拒絶する。だから……。
 鳴海の蝋でできているようなのっぺりとした顔を見、怜はそんなイメージが明確なかたちで降ってきた。鍵をなくした人間がポケットをひっくり返しているような、鳴海の表情からは焦燥にも似た色が見えるのだ。
 風の音、草の音、樹々の葉のささやき、時を刻む歯車、そして呼吸。怜の周囲にただよっている音は、それだけだ。窓の外、にわかじたての舞台で続く芝居からは、不思議と音が聞こえない。セリフだけが直接耳に飛んでくる。
「電話は、あいかわらず嫌いなんだね」
「すぐに、つながってしまうから」
「俺も鳴海も、電話をかけづらいところに住んでしまったようだからな、それもあるのかもしれないな」
 <施設>に電話だって? そんなものがあったのか。
 怜はなにげないふうで待合室を、受付を見渡した。電話機は……わからない。怜は電話機がどんなかたちをしていたのか、すぐに思い出せない。職場にあったか? 水没した街でみかけたことがあるはずだ。電話、電話って何だ?
「最後に話したのは、いつだったかな」
 兄のひとりごとのような問いに妹は答えない。答えを知っているのに、彼女はそれを言わない。言えない。どこかにしまってわからなくなってしまった。
「冬に会って以来だ。もっと会いにきたいんだけれど、遠すぎる」
 さらさらと空気が転がっていく、そんな感じの風。彼は妹の目線に自分をあわせ、しゃがみこんだ。影がすっと縮む。
「このあいだ、砂浜を見つけたんだ。友達とね。信じられるか、砂浜だ」
 怜は胸の内で同意する。砂浜だって? それはめずらしいよ。
「そうそう。これだ」
 彼はポケットから掌ほどの大きさの封筒を取り出した。開くと、ほぼ同じ大きさの紙、そこに描かれた、世界。少々遠かったが、怜には見えた。青い空、海、海岸線、そして、砂浜。
「鳴海にあげようと思って、持って来たんだ。俺が描いたんだよ」
 白い手が伸びる。膝を芝生に浸したまま、見入る。
「……やっぱり、上手だね。久しぶり、お兄ちゃんの描いた絵」
 掠れた声、彼女の声。
「いままでもときどき描いていたんだ。見せなかっただけさ。ろくな絵がなかったからな。ばかにされるのもつまらない」
「ばかになんかしないよ」
 鳴海が笑顔を見せた。いつか、二度目に彼女を見かけたとき、怜に気づいた彼女が送ってくれた、あのぎこちない微笑み、それ以来だ。
「鳴海みたいには描けなかった。不思議だな、意識すると逆に描けない」
 封筒の中にはまだ彼の手による絵が入っていた。鳴海に、手渡す。
「近くにね、座礁したタンカーがいたんだ。もう錆びだらけでね、空っぽになったタンクの中まで入れるらしいんだけど、友達に止められた。危ないってさ。船体がもろくなっているんだ。指で突っつけば穴が空いてしまうくらいにね。だから、入れない。遠くから見ればでかくてさ、蹴ったって何したってびくともしなさそうなのに、中で歌でも歌えば、それだけでもう崩れるんだそうだよ」
 鳴海は彼の声に聞き入っているようでもあり、彼の絵に見入っているようでもあり、しかし心がどこかを浮遊しているようでもあった。
「でも、鳴海に見せたかった。タンカーだけじゃない、砂浜をね。このあたりは海流のせいか、砂浜が残っていたんだ。川も近いんだ。だからなのかもしれない。今でも夏になったら、かなりの人間がここに来るそうだよ。たいして広くもないんだけれどね」
 怜が知っている海岸は、泥、沈みかけの街、墓標のような電柱の列、それくらいだ。小さい頃の思い出は、おかしい、自分も鍵をどこかに置き忘れたらしい。思い出せない。
 怜は立ち上がった。鍵を一つなくしていたのに、気がつかなかった。いつか取り出そうと考えて、箱の奥底にしまったきり、ありかがわからない。怜は芝生の緑の照り返しを浴びて、一歩踏み出した。
 足音に気づいたのは、鳴海だった。いまはじめて怜の来訪を知った、そんな表情をした。怜は声をかけなかった。そう、僕はエキストラだ。プロペラの音が聞こえる。
 鳴海の兄はそっと立ちあがった。妹の肩に軽く手をおき、吐息を一つ芝生の上に転がしたようだ。そして、振り返る。怜はまだ、舞台の袖を出たばかり。主演のふたりに視線を送った。
 鳴海が、立ちあがった。膝頭にくっついた草や土が、はらりと風に乗る。優しい風に。兄妹が並んだ。背丈は少々兄が高かったが、しかしこうしてみると、ふたりは似ていた。色のない瞳が、似ていた。ただ兄の瞳は、高性能なレンズには見えなかった。意思を秘めた、それはまぎれもなく「瞳」だった。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介