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夏の扉

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 彼が訊く。言葉にこめられた意味はそれだけ。よけいな詮索はふくまれていない。
「ええ、まあ、そんなところです」
 怜はわざと自嘲をこめてみた。彼がどんな表情をするのか見てみたくなったからだ。
「……長いんですか」
 言葉だけではない、彼の表情が少しだけ曇ったように見えた。
「いえ、この春から」
 そうか、春からだったんだ。調査員時代がずっと昔に感ずる。
「こちらに住まわれて?」
 こちらに、で彼の目は白い壁を指す。瞳の境界がくっきりしているのは<施設>の人たちと同じ。藍色に近いくらい濃い瞳。
「住んではいません。外来です」
 彼に自分はどう見えるのか。それを問うてみた。
「そうですか」
 穏やかな瞳、少し甲高い少年のような声音。嫌いな声ではなかった。
 怜はそこでようやく一歩を踏み込んだ。距離をつめる。一歩、一歩。
「診察、じゃあないですよね」
 彼に訊ねてみた。あんがい懐から白く薄っぺらな紙……最初ここを訪れた日に怜が懐にしのばせていた紹介状……を持っているのかもしれない。もう怜には誰が普通なのか、誰が以上なのか、区別などつかなくなりつつあった。
「俺は違います」
 やんわりと否定。しかし事実を述べただけ、それ以上の意味は彼の言葉にはこめられていなかった。そして、寂しそうな色がうっすらと彼の瞳に湧いたように見えた。
「……入らないんですか」
 もう怜は彼の睫が数えられそうなほどに近づいていた。彼のすぐ後ろにはエントランス。
「入っていいものなのかどうか」
 肩越しに見た彼の横顔には、そう、繊細さとわずかだけれど寂寥が混じっていた。かすかに香るのは真水の匂いだ。
「いつも、迷う」
 立ち止まったままの彼とすれ違い、怜の耳に届いた彼の言葉は、ほとんど独り言にしか聞こえなかった。
 怜は振り返る。
 彼は少し肩を落とし、そして小さく鼻を鳴らした。
「入りませんか?」
 声に張りをあたえて、怜は彼に言った。彼は右手で首筋を軽くなでていた。もみほぐすように。エントランスの日陰と彼のひなた。境界を越えて、彼が、来る。
 怜は向き直り、受付でキーボードを叩きつづけている女の子に、来訪を告げた。「こんにちは、白石さん」
 いつもどおりに待合室のベンチシートへ。中庭が光であふれていた。水のないアクアテラリウムだ。腰を下ろし、怜はポケットから煙草を取り出し、オイルライターで火を点ける。いつもながら、怜のオイルライターは大きな音をたてる。
 風が顔をなでつける。太陽とともに吹く風は、いつでも優しいように思う。狂暴さを増した太陽でも、ともに吹く風は優しい。きょう二本目の煙草は、まずくはなかった。ヤニの臭いも気にならなかった。でもけっして旨くはなかった。
 怜は光が群れて踊る中庭を、頬杖をついてながめていた。芝生がまぶしい。たっぷり潮を浴びているはずなのに、枯れる様子はない。なぜか、と考えるのはよそう。ここの人たちのように、見たものをそのまま受け入れること、たまにはそういうこともいいかもしれない。
 芝生を踏みしめる、音。中庭に続く窓は開け放たれている。
 彼女。真水の中を泳ぐ、魚のような。鳴海。いつの日かのリフレイン。しかし怜は席を立たず、中庭をふらふらと歩む彼女の姿を見守っていた。
 風、そして、緑。
 こんな日が続けばいいと、怜は思う。穏やかだ。
 視線。
 彼女がこちらを向いた。白い肌、紺色に近い茶色の瞳、肩まで伸びた髪が風に舞う。そして、足が止まる。まっすぐ、こちらを向いたレンズの目。
 声。
 あやせさん。
 受付の女の子の声は電子音ともけんかをしない。生音なのだけれども、加工ずみ。そんな声。
 怜は煙草を灰皿に置き、振り返る。彼がすっと怜の真後ろに立っていた。寂寥をふくんだ目の色はそのままで。
 鳴海。一瞬、彼と彼女の時間が止まる。いっしょに怜の時計も動きを止める。一列、時空から放り出されてしまった三人。
 なるみ。
 少年のような声。
 怜は鳴海を向く。
 鳴海が応えた。怜にではなく、彼に。しかし彼女の声が待合室に届くには、少し距離が遠すぎた。しかし怜は彼女の唇が動くのが見えた。
 おにいちゃん。
 怜には、そう動いたように見えた。


   二五、空色

 言われても怜は二人が兄妹だとは気がつかなかっただろう。それほど鳴海と彼女の兄は似通ったところがないように思えた。ただ、ただよう匂いは似ていると感じた。真水、の匂いだ。もちろん身体から水の匂いがただよっているわけではない。比喩に過ぎないのだが、彼女も彼も、透明な水中の住人のような印象が強い。
 怜は彼に訊ねた。適当な言葉がポケットの中に見つからなかったから、少しの驚きをこめた目で、彼を見上げた。
(そうだったんですか)と。
 彼は表情を変えない。<施設>の表で対峙したときと変わらず、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。剃刀のような鋭利な刃物ではない、そう、たとえるなら、真夏の太陽だ。小さな太陽が彼の瞳の中にある。ならば、彼から吹きでる風は優しいはずだ。
 妹と無言で対面した彼の横顔は、たしかに「兄」のそれだった。それが、彼から吹いてくる風だ。
 鳴海は芝生の波にくるぶしまで浸かって、動かない。まるで風に向かって立っているようだ。彼女にとって、兄から吹く風は、どんな色に見えるのだろう。
「鳴海」
 怜は、彼女の名前を、名前だけでしかも呼び捨てられたのを聞いたのは、はじめてだった。
 兄が妹とどう接するのか、妹が兄とどう接するのか、怜は知らない。怜にはきょうだいはいない。共通遺伝子をいくつも持つ仲間。何分の一かの自分なのか。
 鳴海は兄の呼びかけには応えない。応えないかわり、緑の波に膝をつき、大きく息を吸った。うつむく、髪が流れる、細い方が上下する。太陽だけ、まぶしく彼女を包み込む。光のベールが風に舞う。瞬間、怜は鳴海がたしかに自分と違う世界の住人なのだと実感した。言葉の領域で認識するのではない、もっと皮膚で感じるような感覚的な違和感。そして、怜の横に立ち、ひっそりとしかし鋭い優しさを秘めた彼はさらに、怜や鳴海とも違う世界に住んでいるらしかった。高い鼻梁、しかし白い肌。そう、妹の肌のように、きめが細かく、白い。
 怜はベンチシートに座ったまま、立ち上がれないでいた。とつぜん劇の最中舞台に放り出された観客のひとり、それが自分だ。おとなしく、スポットを浴びる主演のふたりを見守ることにしよう。しかし第何幕なのか分からないこの舞台、怜はカーテンコールを知らなかった。終わらない、舞台。それが、いま自分が身をおいている世界だ。
 鳴海は草の波に膝を浸し、やがてゆっくりと顔をあげた。表情が、消えていた。もし怜が古典を知っていたならば、一瞬のうちに仮面を取り替えてしまう能の役者を思い起こしたかもしれない。鳴海の顔は、ただまっすぐ兄を見据えるだけで、表情がなかった。
 空気が流れる。彼が、中庭に足を下ろした。
「やあ」
 少年の声。子どもとおとなの中間を残酷にただよう少年の声。目を閉じて彼の声を聞くと、年齢がわからない。
「いい天気だね」
 夏休み、クラスメイトが自宅を訪れた。いい天気だよ、よかったね、遊びに行こうよ。
「いつも、ここに来るんだな。中庭が好きなのか」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介