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夏の扉

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 電車は速度を上げている。乗降客のいない港湾道路は一直線、石狩湾の港は閉鎖されてしまって久しい。一定のリズムを刻むレールの継ぎ目と、架線柱。怜は振り返る。収束された道路の彼方に、初夏の霞に浮かぶ新市街。そう、これが僕の世界なんだ。まだ戻ることができる、自分の街だ。
 線を引くことはあんがい簡単だ。いや、線ではない、帯だ。地下鉄からLRTに乗り換えて、終点まで。徐々に世界が変わっていく、いわばそれは緩衝地帯だ。
 怜は思う。それは思いこみに過ぎないのではないか、と。
 老婦人は<街>と<施設>はそれぞれがお互いを映す「鏡」なのだと言った。稲村は怜をさして、まだ「戻る場所がある」のだと言った。明日香は「あなたはまだ街の人間だ」と言った。
 なにが違うというのか。
 目を閉じる。風が頬をなでつける。かすかに漂う潮の匂い。シートに背中を深くあずけながら、怜は潮の匂いを驚くほど冷静にかいでいた。トランキライザーが効いているのだろうか。フリーズドライのフルーツ、刻んだナッツをたっぷりとふりかけたシリアルに、きりきりに冷やしたミルクを注ぐだけの簡単な朝食をとったあと、処方されているトランキライザーを水で流しこんだ。血中濃度の安定、それよりもトランキライザーを服用するという事実が、心を安定させてくれる。悪夢を思う前に眠りこめ、目覚めにも影響しない睡眠導入剤と、朝、夕方に服用するトランキライザーと、怜はこの二種類を処方されている。<施設>に通う前にも同じようなタブレットを処方されていたが、街を離れ、彼らと接するようになってからは薬の効果が自分でも分かるようになっていた。それはなぜか。
 鏡。
 彼ら、<施設>のひとびとが怜にとっての鏡なのか。彼らが言ったように。もしそうなら、そこには差別に似た意識が不気味に横たわっていることになるのではないか。自分は、彼らとは違うのだという、意識。
 違う。
 怜は電車の振動を感じながら、きつく目を閉じた。まぶたの裏の模様を、数えた。まるで壊れかけのカレイドスコープだ。まだらな波紋、いくつかのフラッシュ、空にひろがる花火。窓に頭をもたせかけた。首筋に日があたる。暖かい。
 首筋……白い肌。
 暗がりにともる白熱灯、ベンチシート、そして彼女。鳴海。
 怜はうすく目を開けた。向かいのシートに乗客はいない。吊革の軋み、色褪せた車内広告、床下で唸るモーター。アナウンス。終点が近い。制動、そして停止。完全に目を開く。
 コインを投じ、運転士に会釈、下車、靴の下の砂、プラットホーム、錆びた空缶、背後で閉まるドア、発車、ただひとり。
 怜は去っていく電車を見送った。一直線に伸びた道路の彼方へ、かげろうが揺らめく港湾道路を走り去る電車が見えなくなるまで、じっと見送った。
 戻れる、自分には帰る場所がある。
 そう思えるだけ、まだいいのかもしれない。自分の場所だと思える部屋が、道路のずっと先にあるのだと思えるだけ。そう、<施設>は怜の場所ではない。それだけはきっと、確かなのだ。では、本当の自分の居場所などあるのだろうか。心から、自分の場所だと思える場所は。
 錆色の街、鉄の匂い、溶鉱炉。
 あそこが自分の居場所なら、海の底に住むしかない。
 電車を見送り、レールの軋みが聞こえなくなってから、怜はプラットホームを降りた。もう何度目になるだろう、<施設>への通院。揚水機場を見、とぼとぼと歩く。長袖のジャケットを着てきたのは失敗だったかもしれない、やはり少々暑い。立ち止まり、息をつく。揚水機場のポンプが唸っていた。ごろんごろん。髪に手をやると、季節の体温がしっかりと感じられた。つまさきに転がっていた小石を蹴り、歩き出す。視界の端に白い壁が見えてくる。<施設>だ。
 角を曲がるとき、セイタカアワダチソウの繁る草地の端に、ブルーの布の切れ端が目に入った。傘だ。あの日嵐で飛ばされた、怜の傘だ。ずっと遠くまで飛ばされてしまったと思っていたのに、案外近くで草にからまり、朽ちていた。そういえば、あれはたった一本の傘だった。思い入れはなかった。仕事で傘をさすことはなかったし、職場との往復でさしていただけの傘だったからだ。しかし最後に強烈な思い出を残してくれた。しばし立ちどまる。見たところ激しくどこかが壊れているようすはない。側溝を飛びこえて草をかきわければすぐに取ってこられそうに見える。
 空をあおいで目を閉じた。目を閉じてもまぶしい。あの嵐はまったく熱にうなされた悪い夢のようだ。あおいだままで目を開けた。白い太陽が鼻の頭のすぐ先にあった。鼻腔がむずむずする。いきおいよく、くしゃみ。怜のくしゃみに驚いて、草地から名前も知らない鳥が一羽、羽ばたいた。シルエット。小さい。
 傘に向き直る。青い傘。怜は側溝を飛びこえようと一歩踏み込んだが、よした。いい、帰りに取ってこよう。
 砂の浮いた道、白い壁、<施設>、いつもの風景。ぴたりとはめ込まれた、それは一枚の絵画のように変化にとぼしい場所のはずだった。でもきょうは、違った。思えばなくしたはずの青い傘をふと見つけてしまったこと、それがひとつの鍵だったのかもしれない。そう、いくつかならんだドアの鍵のひとつを、怜は開けたのかもしれない。
 立ちどまる。靴の裏で思ったよりも大きく、砂が鳴った。彼が、気がついた。
 彼。
 いつもひとりだった。電停で誰かといっしょになったこともなかったし、<施設>からの帰り道で誰かに出会ったこともなかった。もちろん、<施設>を誰かといっしょにあとにしたこともなかった。ただいちどだけ、嵐のただなかに飛び出しっていった鳴海を追った以外には。
 誰も行き来しない、閉ざされた場所。それが怜の知る<施設>だった。稲村は散歩に出かけることもあるのだといったが、それは巡回飛行に飛び立った飛行機がただ、もとの飛行場に帰っていくのと同じだ、よそで着陸することはない。
 彼が振り返る。怜とほぼ同じ背格好、しかしその眼光は射るように鋭かった。両手は脇に垂れていたが、力が抜けているようには見えない。しっかりと地面をつかんだ両足には均等に体重がかかり、そして彼の首は太かった。怜は彼と対峙したまま、歩み寄ることも立ち去ることもできないでいた。彼は違う、<施設>の人間ではない、目の色が違う。
 たとえばしつけが行き届いた猟犬と目をあわせたとき、狙われた側が目線を外せばすぐさま牙が鋭く襲ってくるかのように、怜は彼から目を外せなかった。にらまれたわけでもないのに。むしろ柔和な表情を彼は浮かべていたのに。それなのに怜が目線をはずせなかったのは、彼の瞳が生きていたからだ。<施設>の人たちの目は驚くほど澄んでいる。見たものをすべて受けとめてしまう、よくできたレンズのような目。でも彼の目は、すでに言葉を持っているようだった。
「こんにちは」
 最初に口を開いたのは彼のほうだった。まぶしそうに目を細め、少しだけ顎を持ち上げて。明日香も似た表情をするが、斜にかまえた言い方ではなかった。本当にまぶしくて、思わず目を細めてしまった。それにしてもきょうは天気がいいですね。
「こんにちは」
 怜も返す。まっすぐに彼を見据えて。
 風が吹く。追い風。
「こちらの方ですか?」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介