夏の扉
鳴海は身を起こした。ベッドサイドの時計は午後九時に近い。ベッドから脚を下ろし、ドアノブに手をかけた。かすかにきしんでドアを開ける。すっと部屋から空気が流れ、非常灯だけが点った廊下は水路のようだった。ピアノの音は階下から聞こえる。鳴海は進む。せせらぎをさかのぼる自分の姿が、なぜか鮮明なイメージとなって浮かんだ。こんな時間に部屋を出るなんて、久しぶりだった。一度自室に戻ったらめったに外へ出ることなどないのに。鳴海は夢遊病に冒された少女の気分で、しかし足取りはしっかりと、進む。真琴の部屋から物音は聞こえない。明日香の部屋からはラジオの音が微かに聞こえた。雑音混じりのウェザーリポート。談話室の灯りも落とされている。いつも窓辺で本を読んでいる彼……ああ、わたしは彼の名前を知らない!……の姿もない。施設の人たちの夜は早いのだ。いや、みな自室に引き上げ、出てこようとしないだけだ。子どもたちを除けばほぼすべての部屋は個室だから、徹底した個人主義が<施設>の特徴だ。鳴海はそれが居心地がいいと思っていたし、今もそう思っている。でも、ときどき、たまらなく寂しくなった。
階段を降りる。水路を下って、音の水源を目指すのだ。一歩一歩、一段一段。待合室の壁にはほの明るいランプが点っているが、やはり薄暗い。
水底。源はもう近い。
黒い背を向けた長椅子に、鳴海は怜の姿を見た。煙草の煙はビーコンだ。瞬きを繰り返すと、怜は鳴海の前から姿を消した。ああ、フィルムにゆっくりと、新たなシーンが像を結びつつある。鳴海は軽く首を振ると身を翻し、音の源を探った。
大昔の小学校のように、リノリウム張りの廊下に愛想のない白い壁、淡いブルーに塗られたドアが並んでいる。天井に一列、白熱灯の照明。ピアノの音はいちばん手前のドアの向こうから聞こえていた。ノック。
「どうぞ」
旋律はやまず、声が歌うように鳴海を呼んだ。入室。
演奏者はちらりと鳴海を見やったが、すぐにメディテーションにふけるような表情で両の指を踊らせた。鳴海は窓際から椅子を一脚引き、座った。彼が奏でる曲名は分からない。けれど澄んだ音色、まったく水の流れのような旋律は、目を閉じれば水面を滑る水鳥のような、自由な空気を感じることができた。心地よい。鳴海は目を閉じ、心の中の風景に旅立った。
左手に森、右手には波打ち際。海? いえ、湖だわ。
幼い頃に訪れた、森の奥の大きな湖だ。早朝、濃い霧に包まれた湖畔はまだ人間の世界ではなかった。早起きの鳥たちが水浴びをしていた。わたしは歩いていく。古いフィルムを上映しているはずなのに、傷はまったくない。樹々が発するペッパーミントに似た香りを胸いっぱいに吸いこんでみる。冷たい、空気。ずっと忘れていたのに、忘れようとしていたのに。鳴海は湖畔をひとり歩いていた。誰かを探して? 誰を?
人影。意外に近くに、がっしりとした影。よりそうようにして、細く背の低い、影。古鳴海を向き、その口許が微笑んでいる。鍵が開いてしまった、わたしはいま、<笑顔>を見つけてしまった。もう、見たくもなかったのに。
二人から距離を置いて、もうひとり。霧が薄くなる。やはり、背の低い影。鳴海を見つけると、ゆっくりと手を振る。さよならの合図か、それとも手招きしているのか。鳴海はその場に立ちつくす。誰の顔もまだ見えなかったけれど、その影が誰なのか、鳴海はもう分かっていた。ずいぶん前に訣別したはずの、拒絶しつづけてきたはずの、それは<笑顔>だった。
霧が晴れていく。鳴海も彼らもその場にとどまったまま、歩み寄ることはしなかった。なぜ? もっとそばにおいで……。これは、誰の声?
波が寄せる、波が引く。風は、風は弱い。けれど身体が震える。寒いわけじゃないのに。森の緑が目にまぶしい。……夏休み。
鳴海は彼らを呼ぼうとした。けれど声が出なかった。出そうとしなかった。わたしは声も忘れてしまったのだろうか。不思議そうに鳴海を見つめる、三人の影。呼ばなきゃ。フラッシュ・バック。呼吸が止まった身体は、そう、できたての人形のよう。ねぇ、行かないで。待って、わたしも連れて行って、ねぇ、
お父さん!
旋律が、やんだ。
「綾瀬さん」
低い声。
目を開けた。頬が濡れていた。わたしのなかの<海>がこぼれて流れていた。わたしは、泣いていた!
「綾瀬さん」
中庭の水銀灯が、刺す。鳴海は酸欠におちいった魚のように、口を開いたままあえいだ。
「稲村先生……」
稲村は立ち上がり、鳴海の肩に手をかけ、抑えた表情で彼女をうかがっている。鳴海は涙をぬぐうこともせず、あえいでいた。
「聴かれてしまったね」
稲村はかがみ、椅子に腰かけた鳴海に視線を合わせ、子どもをあやすように頭をそっとなでた。
「……えっ」
ポケットからハンカチをとりだし、稲村は鳴海の頬をぬぐった。稲村のハンカチは真水の匂いがした。
「こっそり練習していたんだよ。誰かに聴かれたら恥ずかしいからね。この時間になるとみんな部屋に戻ってしまうから、聴かれることはないと思っていたんだけれど、聴かれてしまったね」
稲村の掌は思っていたより厚く、暖かかった。
「……なにか、思い出したのかな?」
低い声。ささやくほどの声なのに、よく通る。鳴海は小刻みに首を縦に振った。
「そうか。……昔のことなのかな」
うなずく。
「つらかった?」
ややとまどいつつ、否定。首を横に振る。
「つらくはなかった」
うなずく。
「誰かを、思い出したのかな?」
沈黙。思い出したくない……。いや。
「……また、<終わり>を見てしまったのかい?」
はっと顔を上げ、稲村を向く。水銀灯の光を帯びて、稲村の瞳が水面に見えた。水面、森、昔の、思い出。思い出?
「いいんだ、無理をすることはない。……まだ、無理をしなくていい」
稲村は両手で鳴海の肩を抱く。
「先生……」
稲村はしかし、鳴海に微笑みかけはしなかった。あくまで、彼女の<場面>に自分を登場させたりはしない。<カウンセラー>の立場を決して忘れない。
「先生……」
しゃくりあげるようにあえいでいた鳴海がようやく落着くと、稲村は立ち上がり、もとのとおりピアノの前におさまった。
「もうすぐ、夏になる。……外出許可はいつでも出せるよ、綾瀬さん。いつでも」
はい。
鳴海は声に出さずにうなずいた。
そう、夏が始まるのね。また、夏が。
夏が。
二四、三人
怜は電車に揺られていた。怜以外の乗客のいない、市街電車。空は、晴れ。気温は、高い。電車がカーブを曲がると、もうすっかり高くなった陽射しが影のコンパスを描く。吊革が挙動の乱れぬダンスを踊り、車輪が軋む。埃だらけの市街地を抜けると、背の高い草地が道路を挟む。怜は揺れる車内で立ち上がり、窓を開けた。電停という電停はすべて通過、吹き込む風は草の匂い。ポプラ並木が少しくすんだ青空に背を伸ばし、捨てられたサイロの屋根は赤茶けた錆におおわれていた。
空気輸送。やがてこの路線も廃止されるだろう。そしてポプラ並木も荒れた草地も、するすると忍び寄ってくる海に飲まれ、湿地帯になってしまう。
怜は思う。街に戻れなくなってしまった彼らを。<施設>の人たちを。