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夏の扉

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 ピアノが鳴っている。
 雨だれのような、遠くから聞こえる潮騒のような、ささやくような旋律。明かりも点けない部屋は蒼く、中庭の水銀灯が繁みをとおしてほのかに明るい。鳴海はベッドに腰掛けたまま、かすかに届く旋律に耳をかたむけていた。曲名はわからないけれど、音符がばらばらとこぼれて小さく細い流れになって、やがて沢筋を下っていくような、そんな曲だった。
 ベッドサイドのスポットランプに明かりを入れた。白熱灯の黄色、薄暮の青。そこに自分の白い指をかざす。光と影をそっとまぜあわせると、夜という時間に身体が溶けこんでいく。鳴海がひとり、落ちつける時間だ。
 夕方が嫌いだった。一日の喧燥は、太陽がみんな持っていってしまう。茜色に染まった空が寂しさを連れてくる。そしてわたしはひとりになる。
 黄昏の時代だと、誰かが言っていた。幼いころに聞いた大人たちの言葉だろうか。それとも、ここに来てから聞いた言葉だろうか。その言葉が正しいなら、わたしのいる場所はどこにもない。この時間の流れにわたしの居場所はない。
 廊下を誰かが歩いている。真琴は足音を聞くだけで、誰が歩いているのかがわかるのだと言っていた。明日香が真琴の額を短い人差し指でつつくと、真琴は憤慨した。本当にわかるよ、ねぇ、鳴海さん。
 鳴海さん。
 真琴も明日香も、自分のことをそう呼ぶ。稲村は、綾瀬さん、と苗字で。
 上目遣い、斜にかまえた目線、低い声。三人のイメージ。記憶が意識がそれぞれの人間が焼きつけるフィルムのようなものだとしたら、三人はすでに鳴海のなかで像を結んでしまった。いずれも、笑顔が。
 鳴海さん。
 真琴が上目遣いに呼んでいる。照れたような笑顔で。振り向くと、彼女は突然降りはじめた霰がガラスを打つように、しゃべる。いっしょに音楽室へ行こうよ、わたしがオルガン弾くから、鳴海さん、歌ってよ。
 鳴海さん。
 明日香が見下ろしている。少し首をかたむけて、眉を片方だけねじまげて。彼女の声はどこか金属を思わせる。硬質な響きと、ストレートな物言い。彼女の部屋からはラジオが流れている。電波が悪くて、ラジオの電源を入れているときは、いつも明日香は不機嫌だ。
天気予報が聞こえないのよ。おかしいなぁ、やっぱり電波かな。ドアをノックするように、スピーカをたたく。
 綾瀬さん。
 廊下の端に白衣を着た稲村が鳴海を呼ぶ。天井の蛍光灯がまぶしい。稲村の部屋のとなりから、明かりがもれている。河東医師が在室だ。でも鳴海は河東医師のことをよく知らない。別に、知りたくもない。綾瀬さん、薬は効いてる? 夜は眠れる? 低い声、夜の池のように深く、底が見えない稲村の瞳。つぎの診察はあさってだ。ちゃんと来るんだよ。
 ずっと聞こえているピアノは、エチュードか。さして技巧にこらず、しかしきちんと旋律、和音で世界を彩る。鳴海は輝く月から隠れるように、ベッドの上で膝を抱え、顔を両の膝にうずめた。
(煙草、吸いますよ)
 不意に呼びかけられ、鳴海は膝から顔を上げた。振り返る。
(驚かせちゃったかな)
 外の人間と会ったのは、どれくらいぶりだったのだろう。煙草をくわえ、大きな音をたててライターから火を点ける、彼の姿。
 わたしに、かまわないでください。
 部屋は蒼く沈み、中庭の灯りは夜光虫のようだ。鳴海はベッドサイドの白熱灯の灯りをしぼった。部屋の入り口ドアのすりガラスが、廊下の灯りを受けて、霧に煙る街角のようにぼやけている。ドアの向こうに人の気配はない。しかし鳴海は煙草の匂いをかいでいた。
 白石さん。
 しばらく新しいフィルムを鳴海は入れていなかった。いや、フィルムは入っていたのかもしれないが、シャッターを切ろうとはしていなかった。ファインダーをのぞこうともしなかった。
 そこに、彼があらわれた。
すっかり淀んでいた池の水の底で、ふっと水が湧き出したように、判で押したようなかわりばえのしない、しかし絶望的な安堵に包まれていた日々に、彼があらわれた。ここの人たちとは違う、街の匂いを漂わせて。そう、彼はここの<患者>たちとは明らかに違って見えた。<施設>が真水の匂いだとしたら、彼は<海>の匂いだ。それはあくまでも鳴海の印象、彼から潮の匂いを感じたわけではなかった。かすかに煙草の煙の匂いを漂わせて。懐かしい、匂い。
鳴海は両の頬に自分の温もりを感じていた。膝頭で頬を挟みこんで。さらりとした肌はふっと、骨っぽい掌に。それは、父のイメージ。もうずっと会っていない、両親、兄。面会にときどき訪れてくれる彼らを、鳴海は意図して避けていた。そう、鳴海のフィルムにがっちりと焼きこまれた家族の姿は、幼い日々のままでとどめておきたかった。色褪せていってもいいから、あの頃のままで。<終わり>なんて見たくなかったから。
 ベッドに仰向けで転がった。
 ランプの灯りが視界の端ですっとにじんだ。こぼれ流れ出て頬をつたい、まっさらなシーツに染み込むわたしのなかの<海>の水。あの嵐の中で口に広がった潮の味は、鳴海が覚えている海の味ではなかった。苦く、嫌な味だった。
 目を開けているのもつらい雨の中、彼は鳴海を追って来てくれた。怜に抱き起こされたとき、鳴海はそのときだけ嵐に感謝した。頬を伝っていたはずの涙を見られずにすんだから。
 それは拒絶だった。確実に、鳴海は怜を拒絶していた。拒絶しなければならなかった。そうしなければ、穏やかな絶望の日々が終わってしまう。彼には好奇心があった。まだ知ろうとする意欲があった。だから鳴海に話しかけてきたに違いない。ここの人たちは良くも悪くも自分以外に関心を持たない。よけいな詮索はしないし、相手の領域に立ち入ろうとすることもない。それが許されているのは<カウンセラー>である稲村たちだけだ。なのに怜は知ろうとしていた。だから、拒絶しなければならない。彼の<場面>に自分を登場させてはならないのだ。わたしの<場面>に彼を登場させないためにも。
 ピアノはまだ続いていた。川のせせらぎを思わせた旋律は、まるで伏流のように、鳴海の胸の奥底をそっと流れていた。ふと記憶が逆流し、そして怜に思いを馳せたのも、胸の底を流れる水の音が鳴海を洗ったからだろうか。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介