夏の扉
「乗るのは嫌いだって言ったでしょう」
「哀しい奴だな」
怜は滑走路を向いたまま、男の低い声を聞いた。
「きょうはついてる。風向きがいい」
「どういう意味?」
「こっち向いて離陸してくれるだろう。きのう、こっち側は着陸だった」
「こんなうるさい場所によく住めますよ」
「好きだからさ」
男は麦茶をあおった。喉が鳴る。
「好きなら、どうして辞めたんです?」
「俺の身の上話を聞きたいのか」
怜が訊ねると、男はテーブルに両足を投げ出し、コップを腹の上にのせた。訊いてはいけないことだったのか。怜はそれ以上の言葉を飲みこんだ。
戦闘機の離陸がなければ、ここは静かだ。草いきれと、虫の声。陽射しが暑い。もう、春は終わった。
「俺だって、疲れるさ」
「え?」
ぼそりとつぶやいた男の言葉。
「疲れるさ。いろいろと。軍ってところは、ただ飛んでいればいいっていうものでもない。いろいろとあるのさ。面倒なことが。……いいわけだな、これは」
男が空軍にいたころは大尉と呼ばれていたと、怜は知っていた。タケミチ大尉。名前も知っていたけれど、怜も男も、おたがいを名前で呼ぶことがほとんどなかった。しめしあわせたように。
「お前は何で環境調査員になったんだっけな?」
今度は怜が言葉を探す番だった。
「環境省の職員だ。<機構>の一員になるのだって、パイロットほどとはいわないが、それなりにむずかしいんだろう。なぜ、なった」
「給料がよかったから。それに、住むところも保証される」
「軍だって同じだ、給料はいいし三食昼寝付きだ」
男は新たな麦茶を自分のコップと、怜のコップに注ぐ。
「どうして、こんなことになったのか、知りたかったのかな」
「こんなこと?」
「むちゃくちゃになった環境を、なんとかしたかったのかもしれない」
「えらいじゃないか」
水滴がびっしりついたコップを、男はあおる。
「で、どうにかなりそうもないって、気づいたのか」
男は低く、鋭く、言った。怜ははっと彼を向いた。
「タケミチさん」
「……飛ぶたび、海岸線の地形がちがう。プリブリで提示される地図が、毎月描きかえられてる。空からだって見えるのさ。墓場みたいに頭だけつきだして沈んでる街が。そんなものばっかし毎日見せられてみろ、疲れる」
爆音をふたりにぶつけ、二機の戦闘機が翼と翼をふれあわんばかりにして離陸していく。男は首をまわして灰白色の怪鳥を追う。翼端が曳くヴェイパートレイルは、鋭いカッターナイフで空を切り裂き、その向こうがちらりと見えているようだ。
「お前が飛行機が嫌いなのは、正解だな」
戦闘機を追って空をあおいだまま、男は言う。怜は男がふるまってくれた麦茶を、いっきに飲み干した。ちょっと濃すぎるな、胸でそうつぶやいてみた。ちょっと濃すぎるよ、タケミチさん。
となりに座っている男は、もうパイロットではなかった。しかし怜は、自分は、環境調査員だ。休職中、と頭にはつくけれど。
太陽がまぶしい。
もう、夏ははじまっている。
二三、水鳥
東の空が蒼さをましている。南回りのグラデーション。東の空が燃えていた。いくつもの雲が浮かび、茜色が燃えている。それは怖いくらいの鮮やかさだ。怜はヘッドランプを点け、帰りの国道を走る。話好きの元パイロットはなかなか怜を解放してくれず、給油所裏手のクズ鉄に囲まれたベンチで、男がふるまう麦茶を片手に、彼の無駄話を聞いた。初めて空を飛んだときに感じた「自由」を、男は熱っぽく語った。飛行機がさして好きではない怜のことを、ときに変人あつかいしながら、楽しげに。
(振り向いても空が見えるだけ。誰もいないんだ、自分以外に)
怜は思った。自分以外に誰もいない空、上下左右が蒼い空間。それはきっと、水の底のような感じかもしれない。
となりに座るくたびれかけた男が、かつては音よりも速く飛ぶ戦闘機を駆り、鳥よりも速く高く空を舞っていたなどとは到底信じられない話だったが、両手を中空にひらひらと漂わせ、飛行隊のエースを「撃墜」した瞬間の快感を語る男の横顔は、子どものような輝きがあった。
アンチコリジョンライトを瞬かせ、怜を見送るように戦闘機が追い抜いていく。雲にまぎれて機影が消えてしばらくして、あの嵐の中で聞いた雷鳴のような轟音がクルマを揺らす。
怜はガスペダルを心持ち深く踏み込んだ。戦闘機には到底かなわないのはわかっていても、いくらスピードを上げたところで空に舞いあがれるはずはないのだけれど、速度計の針が時計回りに踊るのが心地よかった。街道沿いにならぶ街灯は錆び、いくつかは曲がり、それでもいまだ光りはたもちつづけている。<街>のいたるところではときおり停電するのに、どうでもいい場所の街灯はまだしっかりと生きている。通う人間がいなくなった道路、森の中の街灯、住む人がいなくなった街角で、ただ光るだけの灯り。
ディーゼルカーに引かれた貨物列車の黒々としたシルエットとすれ違う。怜はステアリングから片手を離して、胸元で手を振った。いたるところの線路は水没してしまったが、首都とこの北のはずれの<街>を結ぶ列車は、まだがんばっていた。
一日が終わる。
日付がかわるまでにはまだずいぶん時間があるのに、日が暮れるとその日が終わってしまった気がするのは、はるか太古の記憶だろうか。半分海に沈んだ町を同僚と歩いたとき、誰もいない街で点る街灯がたまらなく寂しかった。一日が終わる時間、見届けるのは自分たちだけ。空をひとりで飛ぶのとは違う。誰かがいるべき場所をひとり歩くのは、寂しすぎた。そう、自分は「自由」を感じたのではなかった。「終わり」を噛み締めていたのだ。
時代が変りつつあるのだと、<機構>は世界中で叫ぶ。時代は変る。新しい時代が、はじまっているのだと。しかし怜はそうは思わなかった。変化の最前線を日々絶望といっしょに歩きつづけ感じたことは、「終焉」だった。時代は、終わる。変るのではない、終わるのだ。にぎやかだった時代は、もうはるかかなたに行ってしまった。
黒くたたずむ森を抜けると、市街地に入る。オレンジ色の街灯が一列にならんでいるが、走るのは自分だけ。停止信号、赤い眼。廃墟以外に言葉を持たない街でひとり、アイドリングが頼もしい。そのとき怜は、横断歩道を渡る少年を見た。学校帰りの少女たちを見た。買い物袋を下げたおばさんたちを見た。対向車線はヘッドライトの列。家路に急ぐ車の群れ。
青信号、スタート。
とたんに怜はひとりになった。すれ違うのは砂埃。家路を急ぐ人々の群れは、霧散した。しかし怜は、たしかににぎやかだった時代を垣間見た。自分はひとりではなかった。誰かが灯りの下で待つ、その部屋へ向かって走るひとりに、怜はくわわっていた。
交差点を左へ、正面、遠くに斜面。<団地>が見える。捨てられた街、造られた街。薄暮につつまれる廃墟を、怜は帰路についている。<機構>によって造られた、<団地>へ。
住む人の消えた街路を、ただ水銀灯が照らしている。怜が見た懐かしい喧燥は、街が見せた幻影か。がたつくサスペンションをいたわるように、怜はそっと、スロットルを開ける。水銀灯が、ナトリウムランプが、点から線へ、速度計の針と同調して、にじむ。