小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

夏の扉

INDEX|2ページ/125ページ|

次のページ前のページ
 

 まるで彼女にせかされたかのようだ。怜は煙草に火をつけた。自室以外で喫うのは久しぶりだった。少女は怜に向かって微笑んだようだ。笑顔はどきりとするほどあどけなかった。怜には彼女がいったい幾つなのかが分からない。伸びた灰を磨き上げられ吸い殻ひとつない灰皿に落とす。少女は怜から少し離れた席に落着いた。少し、猫背。日差しが踊る中庭と、待合室は対照的だ。陽と、陰。海風に枝が揺れ、影が揺れる。じっくり根元まで煙草を灰にし、ちらりと少女をうかがった。待合室にはうっすら煙草の煙が層をつくっていた。彼女は煙をまったく意に介さないかのように、じっと中庭を向いていた。子どものような瞳に、つややかな唇、しかし漂う雰囲気はどこか屈託していた。
 やがて廊下の向こうから怜の名を呼ぶ声が届く。白石さん、どうぞ。
 漂う煙を軽く右手ではらうようにして、彼は立ち上がる。受付の女の子が診察室をそっと示す。中庭を横目に、ひんやりとした廊下を進む。突き当たりが診察室らしい。ドアの手前でもういちど待合室を振り返ると、彼女は先程と変わらず、よくできた彫刻のように、じっと前を見据えて座っていた。部屋にはまだ、煙の層がうっすらとたなびいていた。


   二、タンポポ

 白いレースのカーテンがかかる大きな窓を背に、柔和な表情の男がゆったりと椅子に腰掛け、入室した怜にも座るようにうながした。怜が腰掛けた椅子は、彼のさして重くもない身体に、微かなうめきをあげた。椅子に落着き、二人は向かいあった。淡いブルーのシャツに藍色のネクタイをしめ、その上に白衣をまとった男の姿は、そう言われずともはっきり医師と分かる、そんな風貌だが、しかし彼が小学校の教師だと名乗っても怜は違和感を感じなかっただろう。男は人の好さそうな目をしていた。
「稲村です」
 男はまず、みずからを名乗った。そして目尻にしわを寄せ、「こんにちは、白石さん」、そう言った。怜は会釈で返した。
「さて、どうしました」
 稲村は怜にまっすぐに向き、両の指を膝のうえで組み、訊いた。おなじみのセリフだな、怜は医師のピアニストのように細くしなやかな指を眺めつつ、言葉を探った。彼は楽器を弾くのだろうか。視線を窓辺にうつす。霞は徐々に晴れ、空は青さを増しているようだ。医師の机上には、ガラス製の小ぶりな花瓶が載っていた。タンポポの花束が、にぎやかだ。しばらく怜は言葉を探ったが、稲村医師は一言も余計な口をはさまなかった。
「稲村先生」
 医師から視線を外し、怜は口を開いた。
「はい」
「先生は楽器を弾かれますか?」
 怜は言葉を放つと顔を上げ、医師とはじめて目を合わせた。黒目がちで、柴犬のような目をしていた。
「ピアノを、少しだけ弾きますね」
 低くやわらかな声が返ってきた。「ただし、下手ですよ、到底お聞かせできるような腕前じゃない」。稲村はなぜ怜がそう訊いたのかは問わず、
「白石さんは、何か?」
 そう言った。
 怜は自分の両手を開き、握る。キーボードの感触だけが蘇る。鍵盤ではない、キーボード。さもなければカウンターや双眼鏡の重み、脚を取られそうな湖沼のぬめりを思い出す。そして、そのたびに感じた絶望。
「僕は、いつか弾けたらいいと、思っていました」
 自分の声は、口を離れたとたんに診察室の床に転がってしまった。稲村の耳に届いたのだろうか。
「どんな楽器を弾いてみたいと思ったのか、もしよかったら教えてもらえますか?」
 稲村が問うた。
 いつも嫌になるほど感じた蛍光灯のちらつきが、ここでは気にならなかった。ふと天井を見上げる。ところどころがくすんだり染みになってはいるが、おおむねほころびのない、きれいな天井だった。そこに二本一組の蛍光灯が点っているのだ。安定した供給。ここにはまだ電気は来ているのか。
「友人が、ギターを弾いていました」
「ほう」
「彼の指は、よく動くんですね。まるでフィルムのコマ落しみたいに。しかも、滑らかな音がするんです。そう、まるで口で歌っているみたいにね。ですから、いつか、自分もそんな風にギターを弾けたら、きっと心地いいのだろうなと、ぼんやりですけど考えていました」
 こんどはなるべく大きな声で、言った。ひとつ一つの言葉を、稲村の耳に放り込むような気持ちで。
「その友達が演奏する姿を見て、自分もそうなりたいと、思ったのですか?」
 稲村の声は終始穏やかでよどみない。
「彼のようになりたいと思ったわけではなくて、そうですね、思いどおりに楽器を弾けるという、そのことに憧れた、というか」
「思いどおりに、楽器を弾いてみたい」
「そうです。そう思いました」
 怜はずっと、稲村の目を向いて話をしていた。稲村もまた、怜の目から視線を外さなかった。瞬きはゆっくりで、ふと怜は、この医師と自分では、時間の感じ方が違うのではないかと思った。
「では、なぜ、ギターをはじめなかったんでしょうね? 『自分も弾いてみたい』、そう感じたのであれば、よしやってみようと、そういう気持ちというのは、起こりましたか?」
 医師はゆっくりと、言葉を手渡すようにしゃべる。
「起こりました」
「起こった」
「はい。その友人の部屋で、彼の演奏を見てから、自分もなにかやってみようと、自分もやれるのではないかと思いましたから、今度、ギターを買おうかと考えて、カタログも集めました」
 薄暗い店内と、壁に並びライトを浴び光沢を帯びたボディ。加湿器が小さな音を立て、片隅で長髪の店員が弦を張りかえていた。
「カタログも集めたんですか。どうでした?」
「ええ、いろいろと、目がうつりました。カタログを眺めていると、結構こう、楽しくなってきました。僕が好きなあの曲も、自分の手で弾けるようなるのかな、とか、練習して、その友達と一緒に弾いてみたいな、とか。そう、なんていうのかな、そういう自分の姿とかも浮かんでくるんですね」
「ギターを弾いている、自分の姿ですか?」
「そうです」
「それは、楽しそうですか? いえ、あなたが思った、ギターを弾いている自分の姿ですよ」
「楽しそうでしたね。実際、楽しいだろうなと思いました」
 無意識に、まだ押さえ方も知らないコードを、左手がかってに握っていた。
「いいですね」
 稲村医師の顔がほころんだ。つられて怜も頬が緩んだ。そうだ、ギターを弾けたら、楽器を思いどおりに弾けたら、どれほど楽しいだろうか。
「でも、買わなかったんです」
 怜はふたたび稲村の組んだ指を見る。彼の十の指が、軽やかに鍵盤を踊る姿が苦もなく浮かぶ。
「買わなかった。それは、どうしてでしょうね」
「ええ。仕事が終わって、部屋に戻ってくるじゃないですか。ぼけっと、集めてきたカタログをめくるんです。こう、ぱらぱらとね。どのギターも格好がいい。来週の日曜に買いに行こうと思うんです。手帳に、気に入った機種の型番をメモしたり、予算を計算したり、もう、買う直前まで行ったんです。機種も決めて、友達に訊いてどのアンプがいい音がするだとか、そうそう、真空管の型によっては、こんな音がするんだとか、教えてもらいました」
 医師は柴犬のような黒い目をゆっくりと瞬きし、怜の言葉にうなずく。
「でも、ふっと思ったんです。思いどおりに行くはずがないって」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介