夏の扉
自動小銃を肩に下げた武装警官があくびを噛み殺している。すれ違う子どもたちは、輝かんばかりのはつらつとした表情だ。ふと、自分がどんな顔をしているのか、怜はわからなくなってしまう。ポケットの鍵に触れながら、もうひとつの世界に思いを馳せた。そんな大げさなことではないのだけれど。
環境調査員を拝命してから、怜は自分が調査員の仕事と相反するような物を所持していることを、当然のように誰にも言わなかった。たった一世紀で世界の価値観、環境を様変わりさせてしまった元凶のような物を、<機構>の末端構成員たる環境調査員が所持しているのは、具合が悪いはずだからだ。学生時代につてで手に入れ、ときどき友人や、そうでなければひとりで「所持品」を使って、いくぶん背徳な気分に浸った。
振動、熱気。
ポケットの鍵を差し込み、ひねる。そうすれば、彼の「所持品」に生命が宿る。
怜の「所持品」は、旧市街の片隅、持ち主が消えた廃屋のガレージに置いてある。半世紀前に姿を消したはずの、ガソリンエンジンを搭載した自動車だ。
まずエンジンをかける前に、ドアを開けなければならない。もうひとつの空間を、開ける瞬間だ。少々カビと埃の匂いが気になるが、それでも半世紀をへてかたちはいまだ崩れていない。鍵をひねる。イグニッション。バッテリー技術が格段に進歩しているから、メンテナンスをさぼってもセルモーターは軽々と回ってくれる。だが、シリンダーになかなか火が入らない。プラグが火花を散らしているのに、エンジンは目覚めない。スパークプラグを交換したのは、二年前。まともに手入れをしないので、機嫌が悪い。一分ほどセルを回して、ようやくエンジンに火が入った。だがまだスロットルは開けられない。暖気を十分にしてやらなければ、走り出してもすぐに機嫌が悪くなる。
燃料残量警告灯にランプが点っている。ガソリンの入手は、角を曲がれば給油所があった時代と比べれば、天と地ほどの難しさがある。<機構>は自動車の保持を禁止したわけではないし、ガソリンエンジンそのものが違法化されたわけでもなかったが、燃料が不足気味になれば、誰もが関心を失うにきまっている。もっとも、電力の安定供給すら難しくなってからは、個人で自動車を保持する人間は、ぐっと減ってしまった。
一、二分も暖気をしただろうか、これ以上エンジンをアイドルに保つのは、もはやただ燃料を無駄にし、余分な二酸化炭素を放出するだけだ。さあ、走ろう。左手を伸ばせば届く場所に、トランスミッションを操作するレバーがある。トランスミッションを必要としない電動車が主流になってからは、謎の部品と化してしまったシフト・レバー。クラッチペダルを踏みこんでレバーを第一速位置に突っ込む。ガラガラと耳障りな音をたてるミッションに、ひときわ大きな音をたててギヤがエンゲージ。スロットルを開け、クラッチをつなぐ。走りはじめたもうひとつの空間。ひさびさだ。
走る自動車が陸軍の車両や<機構>のものに限られるようになってから、道路整備はストップしてしまった。もちろん新市街は別だ。だが旧市街のアスファルトはひび割れめくれあがり、雑草が顔を出し、荒れ放題だ。環状道路からかつての国道へ。信号機は生きているが、走る自動車はほとんどない。くすんだ街並みと、人通りのない道路。強制執行以前に、世界人口が激減している余波は、ここにもおよんでいるのだ。怜はギヤを第六速に叩きこみ、スロットルをさらに開ける。排気音が高鳴り、速度計の針が踊る。景色が後ろに向かってすっ飛んでいく感覚は、市街電車に乗っていては味わえない、独特だ。
国道を南へ。緑が目に痛いほどまぶしい。怜はクランクを回して窓を開けた。砂埃が思い出したように飛びこんでくるが、草や樹の匂いが心地いい。空は晴れわたり、スロットルを開けるたび、二酸化炭素をばらまいていることが犯罪めいて感じてしまう。許して欲しい、怜は声に出してつぶやく。怜が目指すのは、市街地から約四十キロ、空軍基地が設置されている、火山灰地に広がる小都市だ。
学生時代、怜にこの自動車を紹介してくれた男は、おかしなルートにいろいろとコネを持っていた。もしかすると危険な人脈すら持っていたのかもしれないが、気のいい男だった。彼はガソリンが安定して手に入る場所も知っていた。それが、空軍基地のはずれの給油所だった。
(航空燃料?)
(まさか、JP-8でクルマを動かすってのか、贅沢だな)
彼の言葉はときどき理解できなかったが、給油所で入れた燃料は、確かな性能を約束してくれた。
緩やかなアップダウン、花に包まれた町、北へ向かう貨物列車、送電が止ったままの鉄塔群、森の緑、空の雲、すれ違う路線バスは、エンジン音が聞こえない。
実際、超伝導モーターを搭載したクルマは、ペダルを踏むだけで力強く加速するし、複雑なトランスミッションを必要としない分、操作もずっと簡単で、ガソリンエンジンよりも性能がよかった。怜のクルマと職場にあった高機動車が競争すれば、四百メートルも走らないうちに勝負がついてしまう。デリケートで重たいガソリンエンジンが衰退したのは、時代の趨勢だったにちがいない。けれど、気難しい老人を思わせるこのクルマを、怜は嫌いではなかった。
記憶にすらない懐古趣味。
稲村は何というだろうか。
海が上がってくる、その片棒を自分はたしかにかついでいる。沈みかけた腐った街、干潟に埋まった錆だらけの自動車、ガイガーカウンターの反応……。怜の視界が明るさを失いかける。心の底でまたあの狂気が顔を出す。そんな思いをふりはらうように、スロットルを開けた。過給器が甲高い悲鳴を上げている。窓から吹き込む風が頬を叩く。ステアリングを握り直し、国道を走る。ルームミラーに、自分がまきあげる火山灰が映りこんでいる。まるでジェット戦闘機が青空に曳くコントレイルのようだ。シガーソケットから煙草に火を点け、助手席を見やる。誰もいない、シート。
怜はあの夜に見上げた月を、思い出す。
あとすこしで基地の街にさしかかる。怜はガスペダルから足を放した。クルマは惰性でしばらく走る。エンジン回転はなかなか落ちない。エンジン・ブレーキ、電動車の回生ブレーキのタッチと減速の感覚はちょっとだけ違う。ギヤをニュートラル位置へ、ブレーキ。効きはまだ悪くない。ペダルを床まで踏んでみる。アンチスキッドはON、突き上げるような作動、そして停止。燃料残量警告灯のランプは点灯したまま、消えない。基地までは持つはずだが、無駄なアイドリングは避けたい。怜はパーキングブレーキをかけ、エンジンを止めた。
鳥が鳴いていた。草の波、ゆっくりとたゆたう白い雲、自分がまきあげた埃が漂う。ここがかつてクルマが行き交っていた国道とは信じられない。物流システムも<機構>に管理されたため、住み慣れた町を離れ、<街>へ移住する人も増えた。それ以上に周辺都市の人口は減りつづけている。出生率は前世紀とは比べ物にならないほど低下し、この<国>の人口は半減しつつあった。なのに空は青いまま、森は鬱蒼と繁る。