夏の扉
廊下の空気もひんやりとしていた。目立った空調設備があるようにも見えないのに、空気が淀んだ感じは微塵もない。ここは不思議な場所だ。怜は煙草をくわえたまま、廊下を進む。ぼんやりと足元だけを照らす非常灯以外、灯りはない。けれど、すっかり夜に同化した目は、暗さを感じなかった。みな寝静まっているのか、物音ひとつ聞こえない廊下を進む。誰もいない談話室、時を刻みつづける時計。怜は階段を降りる。水の底へ下っていくような、奇妙な感覚。ゆうべは点っていた白熱灯は、いまは消えている。二階よりもいくぶん暗く、しかしものの輪郭ははっきりとわかった。長椅子に腰掛け、ライターから火を点ける。ライターの炎はまぶしすぎる。静かな、水の底のような夜だ。
(見えるんです。『終わり』が)
白い肌、憂いを含んだ、瞳。
窓の向こうには雨の滴をたっぷりまとった中庭が広がっている。ガラスの向こうの、水色の夜。そうだ、ここは水族館によく似ている。魚たちのいない水槽を、僕はだまって見つめている。
(わたしは、あなたの『終わり』を見たくないんです)
僕は、「みんな」の「終わり」を見つめつづけてきたんだ。
こんな美しい風景ばかりじゃなかった。泥の中に沈んでいく街、ぴたりと時間が止ったような、朽ち果てていくだけの「風景」を、僕はなすすべもなく見つめていたんだ。どんどん広がっていく、汚らしい浅瀬の海で。極地の氷がこんなに早いペースで融解していくなんて、誰も想像しなかった。誰も本気にしなかった。だから。
(誰もいない部屋で、わたしはひとりで椅子に腰掛けてる。みんな行ってしまってわたしひとりで)
みんないなくなってしまった誰もいない街で、僕は観測機器を抱いてとぼとぼと歩いていた。みんな行ってしまった。そこに住んでいたひとたちの息吹、暮らしの記憶、そんなものはすべて残っていた。あわただしい強制執行、ソファに残された愛らしいぬいぐるみ、壁に残った家族写真、割れた窓ガラス、水浸しの庭。彼らの領域に土足で踏み込んだ、僕たち。観測機器を手土産に。
(部屋に集まったみんなが、ひとりひとり帰っていってしまって、わたしひとり残されたくないし、がらんどうになった『場面』なんて、つらすぎるから……)
そうだ、僕たちは残されてしまった。時代に、とり残されてしまった。見慣れた風景は、次から次へと水の底だ。
怜は鳴海に話しかける。
君の、気持ち、僕は、何となく、わかる。
いつしか煙草は根元まで灰になっている。灰皿でもみ消して、怜は席を立つ。席を立ち、窓辺に歩む。
窓を開ければ、草の匂いと風。見上げれば、月。陶器でできているような、つややかな色。そう、鳴海の横顔のような、白い肌。青い夜、白い月、風の波、穏やかな時間。
うそつき。
不意にそんな言葉が、怜の口を出た。
怒りにまかせて吹き荒れていた嵐は、そう、嘘のように止んだ。
正直すぎるのかもしれない……。だから、たやすくだまされてしまうのさ。
(あなたがいなくなるとき、あなたの言葉だけ、優しかったあなただけが、わたしの中に残ってしまうから、そんなのつらすぎるから)
僕は、ここにいるよ。
月を見上げて、怜はつぶやいた。自分の耳にも届かないくらい、小さな声で。けれど、はるか上空で輝く白い肌の「彼女」には、届いているような気がした。いや、届いていて欲しいと、怜は思った。
風が吹く。草の匂い、土の匂い、雨の匂い。お願いだ、微かな潮の匂いをふりはらってくれ。
怜は足元に目線を落とす。ここには、まだ確かな地面がある。でも、あと数年でここも沈んでしまうに違いない。
もういちど、見上げる。と、重そうな雲が流れてきて、月はすぐに隠されてしまった。
……おやすみ。
口に出さず、胸の奥で怜はつぶやき、踵を返した。
待合室は、さきほどよりもずっと、暗く感じた。
まぶしさに目を開けた。夜中に目を覚ましたとき、カーテンを閉め忘れたのだ。この部屋の窓は東を向いているらしい。白い壁が朝の光を受けてまぶしい。ベッド脇のテーブルに置いた防水時計をたぐる。午前七時。定時に目覚める必要がなくなっても、目が覚めて時計をまず確認する癖だけは抜けない。
窓は青一色。ガラスそのものに色をつけたらきっとこんな感じだ。
ドアの向こうに人の気配がある。気配というより、人の雰囲気だ。<施設>が目覚めている。怜は起きあがり、ひとつ大きく伸びをした。頬に残っていた水滴の感覚も、もうない。新しい一日はもう始まっている。
すっかり雨に濡れた衣類は、真琴が洗濯してくれて、今は椅子の上にたたまれている。スウェットを脱いで、着替える。乱れたシーツをきれいに整え、カーテンを閉めた。短い「入院」は、おしまいだ。部屋を出て、ドアを閉める。また、自分の「日常」に、怜は帰るのだ。
洗面所では読書青年が神経質な面持ちで髪をといていた。彼も怜の顔をもう覚えているはずだが、ちらりと視線をよこしただけで何も言わなかった。怜も何も言わなかった。朝食の席は怜ひとりだったが、食後に明日香と顔を突き合わせて笑顔をこぼす真琴に、洗濯と部屋の礼をした。相変わらずの上目遣い、明日香の人を食ったような物言いも健在だった。ひとこと、街へようやく帰れますね。
鳴海は窓際で朝食をとると、すぐに自室へ戻ってしまい、怜が声をかける暇はなかった。細い首、白い肌、もの憂げな瞳。嵐が去り、見上げた月の表情を、怜は彼女の後ろ姿に思い出した。穏やかな拒絶が鳴海の背中に、見えた。だから怜は彼女を追うことはしなかった。まだ、早い。
老婦人がマグカップから紅茶を飲んでいた。季節が駆け足でうつろう時間、陽射しが老婦人の白髪を透かして、怜は場違いだけれども、光ファイバーケーブルのようだと思った。まったく、場違いなイメージだ。
午前八時。
怜は<施設>のエントランスを、ひとり、出た。嵐の痕跡、荒れたアスファルトのそこここに、大きな水溜まりが青空を映しこんでいた。
もうすぐ街へ向かう電車がやってくる。彼の日常へ向かって、走る電車が。
二一、巡航?
ガソリンが極度に手に入りにくくなって、もうどれくらいの時間がたつのかわからない。そもそも化石燃料を使用する機械じたい、ひとびとの目につかなくなっていた。けたたましいエンジン音と、胸が悪くなるような排気ガス。それらはもう、博物館や文章の中でしかお目にかかれないような、過去の遺物になりさがりつつあるのだ。
<団地>を中心とする強制執行によって移住した人たちの街を「新市街」と呼ぶとすれば、地下鉄駅から坂を下り、懐かしい匂いを全身に感ずるこのあたり一帯は、「旧市街」というのだろうか。かつての地名でいうなら「南区」のこの辺は、かりに地球上の氷床すべてが融解したとしても水没する可能性が低い。だから<機構>による強制執行がかけられていない。前世紀の香りが色濃いのはそのせいだ。
怜は鍵をかけて部屋を出る。それはひとつの空間を閉じる作業だ。そして怜はポケットにもうひとつの鍵を持っている。空間を閉じる鍵ではなく、また別な世界へと通ずる鍵だ。