夏の扉
「白石さんは、本来の意味での、<施設>の人間ではない。いつか、街に帰って行って、もとどおりの仕事に就き、そしてここのことは早く忘れてしまえる、そういう日がくるひとだ。いや、あなたは大丈夫です。ただ疲れているだけだから、疲れがとれれば、またもとどおりになれます。でも、ここの人たちは違う。もう、あなたのように街では暮らせないんです」
なぜ稲村はこんな話をしているのだろうか。不意にはじまってしまった、本日二回目の診察に、怜は少々面食らっていた。
「いきなりこんな話を、仮にも治療を受けにきてくれてるあなたにしていいのか。しかし、言わずにはいられなかったんです。
さっきあなたは、綾瀬さんと会った。そして何かを話していた。きょうの午前もそうだ。ここでこうしてわたしとしているように、あなたは綾瀬さんと話しをした。すると彼女は嵐の中に飛び出していってしまった。白石さん、あなたはずいぶんと驚かれたでしょう。そう、ここの人たちは、見た目や物腰は街の人たちと変わらない。けれど、みんなどこか傷を負っている。誰かにつけられたとかではなく、自然と、自分自身でつけたような、重くて深い傷です。だから、不意をうたれることもある。自分を守ろうとしてね。あなたもそういうことがあるからわかるでしょう」
誰かにつけられたわけではないけれど、じくじくと痛む、傷。火傷のような、なかなか治りきらない、傷だ。
「傷ではなく、治りにくい風邪だと思ってくれてもいい。言い古された言葉だが、心が風邪を引いた、とね。誰でも風邪は引く。けれど、人によってはその風邪が治りにくかったり、別な病気になってしまったりする。ときに伝染ることだってあるかもしれない。そうなったら、お互いにつらい。
まわりくどい言い方をしてしまったようですね。わたしが言いたいのは、綾瀬さんの風邪は、すこし人と違うのだということです。ほかの患者さんのことをしゃべるのは、いけないことだ。それはあなたもわかってくれていると思う。しかし、わたしは白石さんのことを信頼して言っているんです。そして、白石さんのこと、綾瀬さんのこと、ふたりのことを思っても言っている。
白石さん、綾瀬さんにはあまりかかわらないであげてほしい。
あなたは優しい。だが、あなたの優しさは彼女にとっては毒だ。そっとしてやってほしい」
稲村は低く、淡々と語った。優しさが毒だといった彼の言葉はそのまま、さきほど鳴海から漏れた、自分をかまわないで欲しい、優しくされるのがつらいのだといった言葉にかさなった。寂しげな彼女の背中が、怜の視界の端にちらりとよみがえる。いつか中庭で見せてくれた、一瞬の屈託ない笑み、落とし物を探すように、いや、地雷原を歩くような危なっかしい足取りで芝生を歩んでいた、彼女の姿が。あのときに見た彼女のはかなげな微笑みは、自分の見まちがいだったのだろうか。
「もちろん、会っても口も利くなといっているわけではありませんよ。ただ、きょうのあなたを見ての、わたしなりの助言とでもいいますか。綾瀬さんはいい子だ。けれど、彼女もまた、ここの人間だということを忘れないでいてほしいと、それだけです。あなたも、つらくなるだろうから」
稲村の言葉は、肝心の芯の部分がどこか欠けているような気がしたが、怜はうなずいてみせた。
「今晩はまぁ、さして居心地もよくないと思うんですが、ゆっくり休んでください。診察はまた再来週だから、明日は受付にひとこと言ってくれれば、そのまま帰ってくださって結構ですよ」
稲村はそれだけ言うと席を立ち、ふたたび診察室へつながる廊下へ、白衣の背中を向けた。
怜は彼の後ろ姿を追わず、鳴海の足取りを思い起こしていた。そうだ、なぜ彼女の姿が、地雷原を歩く少女のように見えてしまったのか。なぜ嵐の中、彼女は転がるように<施設>を飛び出したのか。
みんなの「登場人物」にはなりたくない。
怜は鍵をかけてきた自室を思った。自分には、帰る場所がある。しかし……?
もういちど、鳴海の微笑みが胸をよぎった。
二〇、水の月
夜中に雨が上がっても、洗われた空気が澄み、見上げる空に数えきれないほどの星が散りばめられていたとしても、ベッドの中で夢の数を数えていては、そんな風景も見ることはできない。環境調査員の勤務時間は、おおむね昼間が主で、夜間勤務は数えるほどだった。部署によっては観測機に同乗しての仕事もあったが、彼は午後六時にはもう自室に帰りついていた。だからほとんど、夜空を見上げることもなかった。いや、小さいころ、夏休みに出かけた湖畔で、ふと見上げた夜空はまだ憶えている。目がしだいに慣れてくると、星たちはそれぞれ自らを主張し、瞬いていた。電力の安定供給に陰りがみえはじめた時代、夜空は格段に暗く、しかし明るくなっていた。
怜は暗がりに目をこらしていた。今が何時なのか、さらりとした枕に頬をのせ、自分がどこにいるのか、怜はわからなかった。手動式のカメラのピントをじょじょに合わせていくように、ゆっきりと記憶と感覚が像を結びはじめたとき、あれほどうるさかった風と雨の音がいつのまにか止んでいることに気づいた。嵐は去ったのだ。
半身を起こす。自室では四六時中聞こえている空調の音が聞こえない。ぐるりと部屋を見渡して、ようやく自分が今どこにいるのか、ここはどこなのか、そのことを思い出すことができた。
<施設>だ。
怜はベッドを出て、窓にかかったカーテンを開けた。暗闇に慣れた目に、眩しいくらいの光……月だ。上空、風はまだ強いらしい。雲がはっきりとわかるスピードで流れていく。しかし地上はすっかりいつもの秩序を取り戻したようだ。<施設>の外周に植えられた木は、穏やかに枝を揺らしていた。
鍵をはずして窓を開ける。水の匂い、土の匂い、そして、かすかな潮の匂い。勤務中にさんざん感じた、匂い。なのに冷たいほどの風と一緒に吹き込んでくるそんな匂いは、不快ではなかった。
頭上から、プロペラが回るような、あの風切音が聞こえる。首をまわして屋上を見上げるが、音源までは見えなかった。何の音だろう。
怜は窓を開けたままでベッドに戻り、腰を下ろした。停滞していた部屋の空気が、冷たく鮮烈な風と入れかわる。気持ちいい。スチームの上に並べた煙草は、どれもすっかり乾いていた。一本手にとり、くわえる。が、火は点けない。ここで喫うわけにはいかないだろう。
風が雲を流していた。雨雲のなごりか、濃密で重そうな雲だった。怜はふたたび立ち上がり、窓を閉めた。ライターをてのひらに包み込み、部屋を出る。