夏の扉
彼女は両親に、妙に壁の白い施設に連れて行かれた。そこでは白衣を着た男が、彼女に様々な質問を繰り返し、様々なテストをおこなった。医師は最初、彼女を自閉症だと思っていた。両親は診察に心を痛め、ますます彼女に愛情を注いだ。しかし、彼女はそんな大人たちを少し離れた場所からそっと見下ろし、彼らが望む子どもを演じることで、少しでも両親や祖母を慰めようとした。
小さいころは泣いてばかりいた彼女は、歳を重ねるごとに、表情を胸の奥にしまいこむようになった。ともすれば発狂せんばかりの悲しみに襲われる。そうならないためには、感情と呼ぶべきものを厳重に梱包し、ガラス張りの胸の奥底にしまいこむしかなかったのだ。そうして彼女は、打ち捨てられた街の片隅に居を構えていた<施設>にたどりついてしまった。
両親はときどき彼女に会いにきてくれる。面会時間が終了するとき、なごりおしそうに席を立つのはきまって彼らの方だった。空軍に入り戦闘機のパイロットになった兄は、両親ほどではないが、年に一、二度、彼女を訪ねてくれる。彼はほかの大人たちのように、彼女を哀れみと同情の目で見たりはしない。小さいころと変わらず、奔放で負けん気の強い瞳で彼女と接してくれる。だから彼女は、両親よりも兄のことが好きだった。優しかった祖母は、<機構>の<施設>に入所してしまったとかで、もう何年も会っていなかった。会いたいと思ったことは何度とあったが、彼女はそのことを誰にも告げていない。祖母のことを考えるとき、彼女は一冊の絵本を、そのストーリーを思い出す。<施設>に入ることがきまった際、彼女は祖母のことを忘れようとつとめた。もっともつらい「終わり」を「見て」しまう、優しかった祖母。その思い出を彼女は封印しようと考えた。そのかわり、一冊の絵本を荷物のなかにまぎれこませた。それが祖母が買ってくれた、あの絵本だった。
幼いころ、彼女はその絵本が好きだった。祖母の膝のうえに座り、あるいは隣に腰掛けて、祖母がゆっくりとストーリーを読んでくれるが好きだった。午後の日だまりの中で、遊びに行ったきりなかなか帰ってこない兄を待ちながら、ふたりでどこかにあるかもしれない「おばあちゃんのイチゴ畑」に思いを馳せるのが好きだった。でも、彼女はいつも、物語が終わりに近づくと、胸がきゅんと痛むのだった。夕暮れ、老婆を見守るウサギ。やわらかい色使いで、しかし繊細なタッチで描かれた物語世界に、彼女はいた。彼女に物語を読んで聞かせる祖母と、イチゴ畑の老婆が、同化した。
いつか、いなくなる。
祖母に悟られないよう涙を飲みこむことが、彼女のつとめになった。でも、絵本を読むのをやめてほしいとは、最後までは言えなかったし、やめてほしいとも思っていなかった。けれど、祖母の髪が白さを増し、彼女を抱く両腕が細く、しわに包まれるようになると、彼女はきまって思うのだ、老婆のイチゴ畑を、雪におおわれた、ひとときの絶望を。
彼女には見えていた。ひとり、ベッドの中でその役目を終えた老婆の姿が。あのウサギが呼んでも、もう老婆は畑に立つこともない。ひとり、暖かい布団に包まれて、永遠の休息、永遠の冬を迎えるのだ。編みあがったマフラーが、満足げにテーブルの上に載っていて、あたかも明日を予感させるほど部屋の中はかたついている。でも、もう老婆はロッキングチェアに揺られることもない。そして新しい夏がきても、誰もいなくなったイチゴ畑は、もう二度と赤い実をつけることもなくなるのだ。彼女にはその光景がひどくリアルに、肌に触れるような感覚に感じられた。絵本には描かれなかった、物語の本当のラスト・シーンだ。だから、彼女は祖母と別れたとき、もう連絡をとらずにいようと考えたのだ。わたしは、ひとりでいい、誰の「場面」にも加わりたくない……。
祖母の思い出にと持ち込んだ絵本は、自室のベッドの下に、私物を詰め込んだラックのそこに、そっとしまってある。
一陣の強風が待合室の窓を鳴らしたのを合図に、鳴海は席を立った。一本しか持ってこなかった煙草を吸ってしまったあと、怜は手持ちぶさたを鳴海との会話で埋めようと思っていた。しかし鳴海は、モノローグのあとはずっと黙ったままで、怜はひどく居心地が悪かった。鳴海の言う「終わり」のことを考えてはみたが、いまいちよくわからなかった。それをさらに彼女に問うことも、なにやらとがめられる雰囲気で、だから怜は鳴海がそうするように、ただじっと、闇の中庭に目を凝らすしかなかった。
受付のカウンターには薄いカーテンが引かれていた。事務室の灯りも落ちていたから、職員たちはもう帰宅したか、自分たちの部屋に戻ってしまったのだろう。もう廊下の向こうから音楽が聞こえることもなかったし、待合室に残った怜は、海底にひとりぽつんとたたずんでいるような錯覚におちいった。どことなく、ここはアクアリウムを思わせる。
ずいぶん長い一日だ。<団地>の自室に鍵をかけてきたのが、もうずっと昔のことのような気もする。壁の時計を見ても、短針はまだ午後八時に届いていない。だから、いきなり自分の名を呼ばれ、怜は冗談でなく跳びあがって驚いた。
「稲村先生……」
廊下の角に、稲村の白衣が見えた。薄暗く、しかもどこに焦点を合わせるのでもなく放心していた怜は、稲村医師がそこにいつから立っていたのか、まったく気がつかなかった。
「ついてなかったですね」
稲村は診察のときと変わらない穏やかな笑みを口許に浮かべ、一歩々々怜に寄ってくる。鳴海との会話のあとだから、怜はつい、この笑みが治療の道具なのだと身構えてしまった。
「こんな嵐では、帰るに帰れませんね」
稲村は、さきほどまで鳴海が腰掛けていた席とは怜を挟んだ側に腰を下ろした。
「地下鉄の駅まで、車ででも送ってあげられればよかったんでしょうけど、あいにくここには車がないんです」
「それはいいんですが、僕がかってに泊まってしまって、いいのかなと」
「かまいませんよ、白石さんさえいいのなら」
「芹沢さんが、いろいろしてくれたので、助かりました」
怜があの上目遣いの子の名前を出すと、稲村の目がちらりと震えたように見えた。
「あの子ですか。いい子でしょう、よく気がつくし」
「ええ、濡れた服も、ぜんぶ彼女が洗ってくれたみたいで」
稲村は怜の言葉にいちいちうなずく。第一印象のとおり、それは学校の先生の動作そのままに見えた。
「ただ、白石さん」
それまでの柔和な表情を崩さず、しかし強固な意志を感じさせる目を、稲村は怜に向けた。
「はい」
「この人たちは一見、街の人たちとかわりない、普通に見えるでしょう。でも、やはりあなたのように、すこし疲れてしまった人たちです。お互いがお互いを頼ろうとしてしまう。それは病気を治そうというとき、あまりいいことではないんです。相談しあったり、気晴らしに話をしようというのとは違う、やはりどこかで相手を頼ってしまう。それはここの人たちにとってはつらいことです。もちろん、あなたも同じだ」
怜はだまってうなずく。