夏の扉
「別に、もうどうってことないですよ。芹沢さんに案内してもらった部屋も、居心地もよさそうだし」
「今晩、泊まっていくんですか?」
「ええ、電車はもうないですからね。歩いても帰れないし。仕方がないですよ」
「角の部屋」
「んん、角っていうのかな、あそこも。そうですね、角ですね」
音が言葉に聞こえるいくつかの要素がある。雨音をいくら聴いたところで意味をなさないのは、雨音には意思がないからだ。意思を伝えようとする意思もないからだ。しかし、鳴海に向けてしゃべる自分の言葉は、彼女にとってはひょっとして、雨音と同じなのかもしれない。
鳴海は怜を拒絶している。なのになぜ、彼女は席を立たず、怜の隣人でありつづけているのか。それとも怜はただ、鳴海の『場面』を乱しているだけなのか。だとすれば、席を立たなければならないのは自分ということだ。
「普段は、どんなふうにして過ごしているんですか。診察以外ですよ」
煙草を揉み消し、訊ねる。
「わたしのことですか」
「あなたのことでも」
「……部屋にいたり、ここで外を見たり、そんなふうにしてます」
「ほかの人たちとは一緒にいないんですか」
「みんな、優しいから」
「え?」
怜は鳴海の言葉の意味をとりかねて聞き返した。
「みんな、優しいから、だから一緒にはいたくないんです」
「それは、どういうこと……?」
「深い意味なんてありません。ただ、みんな優しいから、だからわたし、みんなと一緒にいたくないんです」
「どうして?」
「……白石さん、ずいぶんおしゃべりなんですね」
鳴海はちょっと呆れたような、唇の端に微かに笑みを浮かべた。目は笑っていなかったけれど。
「稲村先生が伝染ったのかもしれない」
「稲村先生、白石さんのときは、そんなにしゃべるんですか」
「綾瀬さんとは、話をしないんですか?」
「しません」
怜は意外に思ったが、よく考えれば、彼は医師だ。患者によって治療法を変えるのは当然だ。
「稲村先生は、わたしに優しくしないから」
「冷たいの?」
「いいえ、優しくしない、だけです」
「どうして優しくされるのがいやなんです?」
怜は鳴海を向き、その横顔を見つめる。頬はきめが細かく、切れ長な目はやはりガラス細工のようだった。
「白石さん、いつかあなたに、わたしは『ものの終わりが見える』って話しましたよね」
憶えている。意味はわからなかったけれど、はっきりと憶えている。
「ええ」
「それが、わたしの『病気』なんです」
怜はなぜ鳴海が自動人形のように見えるのか、そのひとつの理由に思いあたった。彼女は瞬きをしない。いや、まったくしないわけではないが、一点を見すえたような瞳はやはり精巧なレンズ、ガラス球のようで、かすかに潤んではいるが限りなくつくりもののようなのだ。
「『ものの終わり』って、どういうことなんですか」
「見えるんです。『終わり』が。あなたがわたしの『登場人物』の一人になれば、わたしはあなたの『終わり』を『見て』しまう。わたしは、あなたの『終わり』を見たくないんです。あなただけじゃなくて、ここにいるみんなも」
「それは、例えば僕がいつ死ぬかとかですか……?」
怜が訊ねると、鳴海はゆるやかに首を振り、否定した。
「……そういうわけではありません」
「じゃあ?」
「ううん、そういうことに近いのかもしれない」
鳴海はふっと目を伏せ、顔も伏せた。
「だから、優しくされると、つらいんです。みんなの『終わり』が『見えて』しまうから。わたしはみんなの『場面』に加わって、『登場人物』にはなりたくない。部屋に集まったみんなが、ひとりひとり帰っていってしまって、わたしひとり残されたくないし、がらんどうになった『場面』なんて、つらすぎるから……」
まるで独白、モノローグだった。たしかにそれは言葉だったが、会話ではなかった。か細くつぶやく鳴海は、待合室の中で本当に、命と永遠に訣別した、自動人形になってしまうのではないかと怜は思った。
「誰もいない部屋で、わたしはひとりで椅子に腰掛けてる。みんな行ってしまってわたしひとりで。振りかえっても誰もいなくて、でも部屋は明るくて。わたしの中には、みんなの言葉だけが残ってる。みんな元気だったのに、もういなくなってる」
モノローグは途中から涙声になっていた。怜は鳴海の独白をとめようと思った。しかし怜には、彼女の「スイッチ」がいったいどこにあるのか知らなかった。正しい「スイッチ」を切らなければもう二度と正常に働かなくなってしまう精密機器のように、鳴海はとてもデリケートだ、きっと。
鳴海の足元に涙がこぼれ、瞬きをしない瞳からはとめどなく涙があふれている。
「お願い、わたしに優しくしないで。あなたがいなくなるとき、あなたの言葉だけ、優しかったあなただけが、わたしの中に残ってしまうから、そんなのつらすぎるから」
最後の言葉は、怜に向かって投げかけられたのか、それとも「みんな」に向かって投げかけられた言葉なのか。
怜にはよくわからなかった。
十九、絵本
幼いころの自分は、たしかに無邪気な子どもたちのひとりだったのかもしれない。春になれば道端に咲くタンポポを摘み、空を流れる雲を数え、指先や衣服が汚れるのもかまわず、白い画用紙に絵の具をたらし、自在に世界を写しとっていたに違いない。世界がそれまでとはまったく違った領域に踏み込み、新秩序の名の下で、大人たちが右往左往する様すら、風の音や照りつける太陽と会話をし、まるで気にもならなかった。
しかしいつからだろうか、ふとした拍子に、彼女はとてつもない寂しさに打ちひしがれ、わけもなく悲しくなることが多くなった。そう、たとえば両親が彼女に買い与えてくれた愛らしいぬいぐるみ。彼女が語りかけてもけっして彼らは応えてはくれなかったけれど、ただじっと無言で、穏やかな表情で、つぶらな瞳を彼女に向けて、静かに相手をしてくれた。彼女が住んでいた住宅ではペットを飼うことが許されなかったが、彼女はぬいぐるみを相手に楽しかった。それは憶えている。だが、いつからか彼女はぬいぐるみたちを遠ざけるようになってしまった。大人たちはそんな彼女を訝り、しかしただそのぬいぐるみを彼女が気に入らなかったのだろうと結論した。そして新しく仲間を加えてくれた。でも彼女は新しいぬいぐるみに触れようともしなかった。
「見えて」しまったからだ、「終わり」が。
それはけっして唐突ではなかったと思う。ある日突然、「終わり」を「見て」しまったわけではなかったと思う。気がつけば、「見えて」いた。
彼女は無邪気さをしだいに失っていった。外へ駆けだし、タンポポやシロツメクサを摘むこともなくなった。自室にこもり、窓から見える空ばかり眺めていた。初頭教育課程に入学しても、彼女は同年代の友達ができなかった。もちろん、歳の違う友達もできなかった。できなかったのではなく、作らなかったのだし、作れなかった。両親はそんな彼女を心配した。三歳年上の兄もまた、さり気なく彼女を気遣ってくれた。休みになれば遊びにきてくれた祖母も、彼女には心をくだいてくれた。