夏の扉
微かな冷気も、気にならなかった。階段を降り、ロッキングチェアとテーブルに放ったままの毛糸を取り上げる。今度こそ、ゆっくりマフラーを編めるわね。季節外れの大仕事を終えた夜は、静かに更けていった。
翌朝、ベッドの中で目を覚ました老婆は、部屋の中が妙に明るいことに気がついた。陽射しとは違う、白さだった。そう、クリスマスの朝のような。
雪だった。
老婆は呆然と真っ白い平原になってしまったイチゴ畑を見渡した。
なくなっちまった、なくなっちまった、わたしの大事なイチゴたちが、なくなっちまった……。
老婆は雪原に駆け出した。雪に脚をとられ、転がった。柔らかな雪は、そっと老婆の身体を受け止めた。
きのうの光景は夢だったのだろうか。老婆はついきのうまで漂っていた甘い香りを探していた。けれど、行けども行けどもそこはただの真っ白い雪原でしかなかった。
神様の気まぐれなのね。
老婆は肩を落とすようにして、家のドアに踵を返した。また、来年。寒い冬を我慢すれば、また夏が来る。それまで、ゆっくり休むわ。来年の夏、忙しくなるんだから。
と、雪原にまぎれて、一羽のウサギが前足で雪をかいていた。
老婆は振り向き、ウサギのもとへ歩み寄る。ウサギは一心に雪をかいていた。老婆はウサギが雪と戯れるさまをぼんやりと眺めるのだけれど、ひとかきひとかき、ウサギが雪をかくたびに、あの匂い、イチゴたちの甘い香りが漂ってくるのだ。老婆はそれが自分の心が残っているからなのだと、寂しく一つため息を吐いた。もう、いいわよ、一心に雪をかくウサギに老婆は語りかけようとして、彼女ははっと息を呑んだ。
赤い。
画用紙に赤い絵の具をぽたりと垂らしたかのように、ウサギの前足の先に、真っ赤な色がにじんでいた。
ああ。
イチゴたちだ。真っ赤なイチゴが、雪の下に埋まっていた。甘い香りも、目の覚めるような赤もそのままに。
ウサギはみごとに熟れたイチゴをひとつ掘り出すと、老婆にそっと示した。少し凍ってはいたけれど、それはきのう、老婆が丹精こめて染め上げたイチゴだった。
神様の気まぐれ。
老婆は、ウサギが掘り出してくれたイチゴをひとつ、そっと抱えて住みかへ戻った。冷たかったけれど、しかししっかりと夏の記憶を閉じ込めて。また来年、希望をつないで。
ロッキングチェアに腰掛けて、老婆はイチゴを抱きしめ、目を閉じた。来年、雪が溶けたら、また忙しくなる。忙しくなるわ……。
老婆の静かな冬が、ようやく始まった。
嵐はすこしおさまりかけてはいたけれど、まだ猛々しく雨粒をガラス窓にぶつけていた。怜はあてがわれた病室のベッドに腰掛けて、ぐしょぬれになった煙草をスチームの上に並べて、時が過ぎるのを待っていた。待合室に降りて時刻表を見たけれど、もう街へ帰る電車はなくなっている。そもそも傘を飛ばされてしまったから、いくら弱まりつつあるとはいえ、シャワールームの中を延々歩いて電停まで向かい、さらに電車を待つ気にもなれなかったし、環境調査員を数年勤めるうち、素で雨を長時間浴びる気にもならなくなっていた。そしてすっかり日も暮れてしまった。自分はどうやらここに、<施設>に完全に閉じ込められてしまったようだ。
<施設>の住人たちは日が暮れてしまうと、夕食の時間まで大半が自室にこもってしまうらしい。読書青年とチェス青年たちは談話室から離れようとしないが、真琴も明日香もあれっきり顔を見せなかった。鳴海は午後の診療も中止したらしく、廊下は静まり返っている。怜はリネン室から調達してきた洗いたてのシーツの上に転がって(リネン室の脇にはばかでかい乾燥機がすえつけてあった)、まだ顔に残る雨粒の感触を数えていた。自分はあくまでも招かれざる客人なのだ。大きな顔で建物の中を歩きまわるのも気が引けた。それにどこまでもこの建物はどこかよそよそしいのだ。よそよそしいというか、怜を避けているように思えた。
眠気もなく、ただベッドに転がっているのがしだいに苦痛になってきた怜は、何とか湿気が飛んで喫えそうになった煙草を一本とライターを手にとり、病室を抜け出した。歩きまわるわけではない、階下の待合室まで煙草を喫いにいくのだ。
廊下は蛍光灯が一列、瞬きもせずに点っていた。スリッパで歩くときは、どうも自分は足をひきずるようになってしまう。パタパタとスリッパが床を叩く音がことさら大きく、怜は普段よりずっと歩幅を縮めた。談話室をのぞくと、読書青年がやはり四六版のハードカバーを読みふけっていた。チェスの二人組はいない。だから談話室にはひたすら本を読みつづける青年しかいなかった。彼が引いたのか、カーテンが閉められている。
階段を一段降りるごと、空気がひんやりとしてくる。そして、怜は真水の匂いを感じていた。透明な、水の匂いだ。
華奢な肩、細い首。
待合室の蛍光灯は点っておらず、壁に等間隔でいくつか並んだ白熱灯の、穏やかな間接照明が、博物館の中にでも迷い込んだような錯覚を起こした。その博物館に、彼女は座っていた。
鳴海だ。
微動だにしない後ろ姿は、まさに博物館に並ぶ自動人形、しかも電源が入っていないそれを思わせ、怜は一瞬、歩みを止めた。
灯りがあまりにも弱いため、カーテンを閉められていない窓からは、雨の夜がよく見えた。
ここでこうして鳴海と同席するのは、何度目だろうか。もう、雨の中へ飛び出すのだけはごめんだな、怜は胸の中でそっと呟き、鳴海の左隣へ、そっと腰を下ろした。
「煙草、喫いますよ」
怜が口を開いて、鳴海の身体にようやく電源が入ったらしい。はっとして、白い、蝋でできたような顔を彼に向けた。
「驚かせちゃったかな」
怜は煙草をくわえ、鳴海の返事を待たずに火を点けた。一息、深く、煙を吸い込む。頭がくらりと煙草に酔った。
「わたしに構わないでください」
鳴海は正面、雨の夜に向き直って、ささやくようにそう言った。
「お願いです、わたしのことは、もう放っておいてくれませんか」
鳴海の匂いが真水なら、きっと彼女の声は森の中を流れる一筋の源流だ。
怜はもうひとくち煙を吸い、灰を落とした。
「どうしてです?」
脂の臭いが舌に広がり、怜は微かに不快だった。
「……わたしの『場面』に、あなたを加えたくないからです」
「場面?」
「『場面』です。わたしだけでなく、みんなの、です」
「言っている意味が、よく分からないんだけれど……」
「わたしの『場面』。……それ以外には、どう言っていいのか」
奇妙な言い回しだ。何となく分かるような気もしたが、まったく意味をつかみかねてもいた。
「とにかく、わたしはあなたに『登場人物』になって欲しくないんです」
「こんどは登場人物ですか」
「……」
灰皿に煙草を叩き、怜はまた一息、深く煙を吸いこんだ。
「でも、もう僕はここにいるわけだから、登場人物ですよ。きっとね」
自分の声がこれほど白々しい響きを持っていただろうか。博物館の天井に跳ね返って、しかし自分の言葉は鳴海の心には届いていないようだ。
「さっきのことは、ごめんなさい。わたし、どうかしてたんです」
どうもここの人たちの会話は、飛躍が多い。