夏の扉
「部屋は、空いてます。たくさん」
「じゃあ、泊まってもかまわないのかな」
「先生に訊いてみれば、たぶん」
「先生」
「稲村先生です。あの人が、ここでいちばん偉いから」
『いちばん偉い』とは、真琴にしては幼い言い方に聞こえた。それがすこし可笑しかったのだけれど、怜はただうなずいてみせた。そうか、稲村が院長なのか。
「でも、何も言わなくても、大丈夫かもしれないです。……部屋はいっぱい空いているから」
真琴は、捨てられた子犬のような目のわりに、相手の目を見て話す。ときおり視線をはずしたりはするが、その澄んだ瞳はつねに話す相手の姿を映す。怜は自分の曇った窓が、瞳が、ふと情けなく思えた。
「ありがとう」
「え、はい」
会話に割って雷鳴が轟く。明滅さえしない照明は、ここに供給されている電力は、発電所からの送電に頼っていないことを想像させた。自家発電か。鯔妻の直撃でも受けない限り、ここは文明の温もりが保証されている。
「芹沢さん」
「はい」
「座ったらどうですか?」
怜は再び差し向かいの椅子を示した。
「いえ、わたしはもう部屋に戻りますから」
「じゃあ、僕が使ってもいい、その空き部屋を教えてくれますか?」
「あ、はい」
怜は真琴の返事と同時に立ち上がる。煙草切れの全身がどことなくそわそわしていた。二階では煙草は喫えないか。いや、そもそもほとんどすべてが雨を食らって濡れていた煙草は、箱ごと真琴に捨てられてしまったかもしれない。それならそれでいいと、怜は思った。
真琴は廊下を右に折れる。つまりは先程のシャワー室があった廊下とは反対側へだ。並ぶドアの向こうには患者たちの吐息が詰まっているはずなのに、鼓動が聞こえてもいいはずなのに、それがない。ならばここではすべの部屋が空き部屋なのか。空洞か。胸の中が?
廊下は突き当たりで丁字路になっている。そこを左に折れた一つ目のドアを真琴は示した。
「ここは、空いてます。使ってもいいと思います。ベッドも入ったままだから」
「誰かが使っていたんですか?」
「……知りません」
「じゃあ、使わせてもらいます」
怜はノブを回した。鍵もかかっていない。灯りのない部屋は暗く、ベッドは布団が取り払われた剥き出しだ。窓にはカーテンが引かれていたから、なおいっそう部屋は暗い。天井の蛍光灯が音を立てて点灯した。真琴がスイッチを入れたのだ。
「お布団は、リネン室に行けばいっぱいあります。リネン室は、ここの廊下をまっすぐ行ったところです」
「かってに持ってきてもいいんですか?」
「かまわないと思います」
「ありがとう」
「……あとで、白石さんの服、持ってきますから」
真琴は伏し目がちに言うと、さっと背を向けた。
「ああ、芹沢さん」
「はい」
「……、ジャケットのポケットに、煙草、入ってませんでしたか」
「煙草、ですか。あの、洗濯室に、置いたまま、でした」
声音は照れたように笑ったはずなのに、表情は変わらない。
「取ってきます」
「いいよ、洗濯室はどこですか?」
「リネン室の、隣です」
「自分で取ってきますから」
真琴は首にばねがしかけられた人形のようにぺこりと頭を下げ、早足で去っていった。残された怜はドアを閉め、布団のないベッドに腰を下ろし、息をついた。まるで、きょうから入院するみたいだ。
染みひとつない白い壁に囲まれて、打ちつける雨の音を聞いていると、怜はもう街に、<団地>の自室へ帰る術を失ったような気がした。ここは、どこだ?
そんな脈略のない疑問符が、深海から浮かんでくる大きな気泡のごとく、怜の胸中に波紋を作った。
十八、イチゴ畑
イチゴ畑を季節はずれの太陽が照らしていた。もう間もなく冬が来るはずなのに、もう秋風が日に日に冷たさを増していたというのに、今年の収穫はずいぶん前に終わってしまったはずなのに、太陽は気まぐれに、いったん長い眠りについたイチゴたちの枕をゆするのだ。見上げる空はどこまでも高く青く、それは夏の色ではなかった。はけでさっと掃いたような雲は、イチゴたちが頬を染める季節の雲でもなかった。けれど畑を守る老婆はいそいそとベッドを抜け出し、明るく暖かい陽射しの下、かわいいイチゴたちが再び目を覚ましたのを目を細めて眺めていた。ひょっとしたら、また、忙しくなるかもしれない。おかしいわ、今年はもうすぐ雪が降ると思っていたのに。せっかくゆっくり休めると思っていたのに。
イチゴの実はひとりでに赤く染まるわけではない。イチゴ畑の守りの老婆が、たったひとりで色をつけるのだ。季節の温かさ、彼女の愛情をそのままに、赤く染めていくのだ。だから、初夏、イチゴたちがぐんぐん実をふくらませる季節は忙しい。イチゴ畑の地下に、実を赤く染める顔料がたっぷりと眠っている。老婆は華奢な腕で、エメラルドやアクアマリンにも似た顔料をつるはしで削り、バケットで運び出す。それを溶かせば眩いばかりの赤く甘いイチゴの色ができあがる。
ロッキングチェアにゆったりと腰掛けて、冬物のマフラーを編もうかと毛糸を手繰っていた老婆は、またつるはしを握り、バケットを運ぶ。見る間にイチゴたちはまだ青い実をふくらませている。急がなければ、イチゴたちは青いまま、盛夏を迎えてしまう。そう、陽射しも温度も何もかも、とっくに過ぎ去ったはずの初夏のそれそのものだった。秋物のカーディガンを羽織っていた老婆は、何往復かめでロッキングチェアの背にカーディガンをひっかけ、額にはうっすらと汗を浮かべて顔料を運ぶのだ。
太陽は白い。季節外れの夏がくる。老婆はできあがった真っ赤な顔料と、大きなはけを抱えて畑に出た。老婆の両腕にもあまるほど、元気に育ったイチゴはまだまだかたく、青い。つややかな緑色もきれいだけれど、わたしがこれから、甘く赤く、最後の仕上げをしなくちゃいけないのね。
ひとつひとつ、塗り残しのないように。
やがて畑いっぱいに甘いイチゴの匂いが漂いだす。葉の緑と赤いイチゴの実の対比がみごとで、老婆は一時、顔料を塗るはけを止める。季節外れだなんて、構わないわ、何度だってわたしはイチゴに色を塗りつづけるのだから。
老婆は夢中で、空がまた冷たく蒼い色に戻りはじめていることにも、微かに風に冬の匂いが混じっていることにも気がつかなかった。ただ、急がなければ、日が暮れるまでに全部のイチゴたちに色をつけてあげなければ、その思いだけ。そんな老婆の様子を、遠く白い冬毛に身を包んだ一羽のウサギがうかがっていた。澄んだ瞳が、大きなはけを抱えて畑を縦横に歩く老婆を映していた。
みごとな夕焼け空の下、バケットのなかの顔料はすっかり空になっていた。空のバケットにはけを転がして、老婆は満足げにイチゴ畑を見渡した。塗り残しもない、みんな大切なわたしのイチゴたち。赤く染まって、甘い香りが心地いい。身体は疲れていたけれど、夕焼けの色にも負けないイチゴたちの染まった頬を見れば、誇らしい気持ちになる。誰にもほめられないけれど、でも、満足。老婆はバケットを下げて、畑の真ん中に建つ家のドアを開けた。最後、ちらりとかわいいイチゴたちを振り返って。