夏の扉
雨は小降りになるどころか、激しさを増す一方だ。海が陸に向けてはいあがりはじめてから、嵐はずっと力を増してしまった。怜は幼いころ、雨が降るたびに思った。いったいどこにこれだけの水が溜まっているのだろうかと。雲の上に巨大なプールが浮かんでいて、その底が抜けて豪雨になるのだと、幼い日には信じていた。いや、実は雨雲そのものがプールの底だとも思っていた。そうでなければ、呼吸が苦しくなるほどに降り注ぐ水が空に漂っているとは信じられなかった。歳を重ね、さすがに今ではそんな童話めいた想像は捨ててしまったが、それでも時折怜は思う。鉛色の腹を見せとぐろを巻く厚い雲に、街を水没させるほどの水が含まれているのは、なんとも不思議だと。これだけの雨を降らせてもなお、雲は消滅したりせず、雨上がりの空にもくもくと漂いつづけるのだ。海も空も青い。怜はふと、その区別がつかなくなる。蒼く深い空を見上げるとき、怜は自分が今大洋の直中を航行するちっぽけな船に乗り、舷側からそっと凪いだ波間をのぞいているのではないかと思うのだ。
談話室の窓にカーテンが引かれた。外はもうすぐ正午だというのに、薄暗い。太陽はどこかへ遊びに行ってしまったらしい。ターボプロップ・エンジンに似た唸りは、耳をそばだてれば雨音にまぎれてまだ聞こえる。そしてその音に呼応するように建物が身震いする。窓が枠からはずれるのではと心配になるほど、雨粒がガラスを打っている。怜は音に背を向け、談話室の端にそっと腰を下ろした。あの老婦人が窓際で紅茶のカップを包むように持ち、じっと嵐に向いている。読書青年はガラスがガタガタと震えようが鯔妻が光ろうがまったく動じず、一心にページを繰りつづけている。そんなに熱中できる本はいったいなんだろうかと、怜は彼の手元をのぞきたくなる。でも、席を立つ気にはならなかった。
廊下の向こうから食べ物の匂いが漂いはじめた。そうか、昼食だ。
自分はここにいてもいいのか。ここで二度目の食事にありついてもいいものか。
怜は何となく頬杖をつき、かたわらに立つベンジャミンの葉の数を数えた。やがて談話室に集まる人間が増えてくる。彼らの輪郭がふっとぶれる。スローシャッターで撮った写真のようだ。怜の視覚がおかしいのか、いや、彼らと自分の距離だ。そうではないのか。ここの人たちと自分とは、歴然とした距離がある。電車で三〇分、そんな物理的な距離感ではなくて、これは、意識の距離だ。なぜそう感じるのか、うまくは説明できないが、漠然とした印象がそうなのだ。
やがて鐘の音が館内に響く。柔らかく優しい、心の中の時計の針をそっと巻き戻すような、そんな音。食事を載せたカートがエレベータに消える。談話室に集まった患者たちは、このあいだよりもずっと少ない。テーブルは、根気のない子どもが途中で投げ出したパズルのように、空席が目立った。階下から医師二人が上がってくる。怜は意図して稲村と目を合わさなかった。湯気をたてたプレートがテーブルに並ぶ。怜の前にも。チキンブロスの匂いは、胸の奥にじわりと熱を帯びさせる。柔らかいパンにサラダ。よく磨かれたグラスには澄んだ水。そしてみんなてんでに食べはじめる。怜が座った二人がけのテーブルは、差し向かいが空席のままだ。スプーンをひとり運ぶ。職場でもひとりでの食事は多かった。勤務時間が不規則ゆえ、同僚と語らっての食事は望むべくもなかったのだが、怜に不満はなかった。彼らと話すことは何もなかったからだ。調査員どうしの仲も、けっしてよいわけではなかったように思う。怜だけでなく、全員が。うち捨てられた街の真ん中、作業車の中でレーションを腹におさめるときも、同僚は口数が少なかった。そういう職場だった。だから<施設>のひとたちが、テーブルを挟んで談笑したり顔を突き合わせて食事をしている姿は、怜にとっては奇異にさえ映った。もはやどちらが正常かという疑問は何の意味も持たないように感じた。そんな疑問は空虚だ。
食事がすめば、患者たちはそれぞれの部屋へ引き上げていく。ふたりの医師も階下へ消えた。談話室に残ったのは怜、窓際で身体を傾けページを繰りつづけるあの青年のふたりだけだった。老婦人はカップを片手にどこかへ行ってしまった。蛍光灯の灯りはもうすっかり日が暮れたあとのように寂しく、そして白々しかった。怜は頬杖をつき、嵐の窓を向く。煙草を喫いたかったが、衣類ともども持っていかれて、それすらかなわない。自分の左手が雨音に合わせるようにしてリズムを刻んでいるのに、怜は気づいていなかった。
「白石さん」
頭の上から降ってきた声は、すぐそばで発せられたはずなのに、ずっと遠くから聞こえてきたような響きだった。
「芹沢さん」
「服、かってに洗濯しちゃったんですけど、ごめんなさい。このあたりの雨、放っておくと塩吹いちゃうから、洗っちゃったんです」
「塩を?」
「はい、うっすらと、こう、白っぽく」
真琴は左手に見えないシャツを持ち、右手でそっと生地をなでてみせた。
「海まで、まだ距離はあるのに」
「きょうみたいに風が強いと、そうなるんです。だから、お花もみんな、雨のあとは枯れてしまうんです」
真琴は怜を見下ろしているはずなのに、やはり上目遣いのままだった。おどおどとした瞳さえ直せば、きっとこの子はもっと雰囲気が違って見えるはずだ。例えば、街ですれ違えば振り返らせるくらいには。
「綾瀬さんは」
「……鳴海さんは、お部屋にいます」
真琴はすっと視線をはずした。
「座りませんか?」
怜は真琴に差し向かいの席をすすめた。
「いえ」
真琴を向くため無理に身体をひねっていた怜は、椅子をひき居ずまいを正した。
「午後の診察は?」
「鳴海さんの、ですか」
「ええ」
「……こういうことは、時々あるんです。白石さんのせいじゃありません。どうか、気になさらないで下さい」
「よくある……、綾瀬さんのこと?」
「ええ、時々。だから、稲村先生も分かっていらっしゃいます」
「そうですか」
「……、白石さんの服、まだ乾いていないんです。ごめんなさい」
真琴は軽く頭を下げた。なんだか話をさりげなくはぐらかされたような気がした。
「いえ、どうせこの嵐ですから、しばらく帰れそうもないし」
「明日香ちゃんが言ってました。二、三日、嵐はおさまらないかもしれないって」
「彼女、気象予報をやるんですか?」
ちょっと意外な気がして、怜は思わず口許がゆるんだ。
「白石さんは、環境調査員だったんですって?」
「気象予報はしませんよ、僕は」
「明日香ちゃんも、気象予報をしているわけじゃありません。……彼女、大学を卒業できなかったんです、病気のせいで。天気の話は、……ラジオで聴いたんです。あの人の部屋には、ラジオがあるから」
気弱そうな真琴は、ちょっとしたショックをあたえればぽんと栓が抜ける、ソーダの瓶のようなものなのかもしれない。きっと、この子の「病気」は、これだ。
「このままおさまらなかったら、いや、この嵐がですよ。すると僕は帰れないわけですけど、その場合は、部屋は空いているんでしょうか」
「泊まられるんですか?」
真琴は大きく円い目をもうひとまわり大きくした。
「帰れないのでは、泊まるしかないですからね」