夏の扉
真琴はそれっきり、自分が示した廊下とは反対に行ってしまった。鼻を小さく鳴らし、怜は彼女が示した廊下の右手を進む。暖かい。人の匂いがした。扉はどれも閉じていいたが、確かに人の温もりがある。不思議なことに、<団地>では感じたことがなかった、人の匂いだ。ちぐはぐな気分だった。
廊下の突き当たり、左は明かり取りの窓で、びっしりと水滴がこびりついていた。右へ折れると、温もりが強くなる。でもこれは人の温もり、雰囲気ではない、確かな温度だ。歩んでいくと、左手の壁に配電盤が設置されていて、パイロットランプがいくつか点っていた。冷蔵庫の唸りに似た稼動音。配電盤のすぐ横にぽっかりと入り口、そこが<シャワー室>だった。男女の区別はないようだ。シャワー室の隣が<浴室>らしい。灯りが点っているのは、シャワー室。浴室は真っ暗だ。ドアを開けると、クリーム色の壁に囲まれたそこは脱衣場らしい。すっかり雨がしみて重くなったシャツを脱ぎ、腿にへばりつくパンツをはがすようにしてバスケットに放った。シャワーを浴びても着替えがない。しかしもう怜はあれこれ考えるのをよした。身体を温めよう、それから考えよう。
シャワー室に入り蛇口をひねると、冷えた身体には熱すぎるほどの湯がほとばしった。怜はしばらく、外の嵐に負けない水滴に身を預けた。心地いい。湯気が部屋の輪郭を曖昧に変えていき、自分の身体も湯気とともに溶けていくようだ。顔を上げ、ノズルからほとばしるお湯を受け止める。潮の匂いも、暴力的な冷たさも強さもない。身体はまだ冷えていたから、肩から胸へ、腰から足元に流れる湯は熱を奪われていき、反対に怜は全身に血が通うのを実感する。暖かい。
どのくらい湯を浴びつづけたろう。二の腕が桜色だ。頬が上気しているのが分かる。ひと心地ついた、そんな気分だ。ほつれてからまりほどけなくなった糸のような、なんともいえない奇妙な苛立ちも、流れる湯がすべて冷たさとともに奪っていったのだろうか。蛇口を閉めると、雨音。まだ誰かがシャワーを浴びつづけているのかと思うほど、雨音ははっきりと聞こえる。すりガラスの向こうは見えないが、風と雨は仲良く窓を叩きつづけているのだ。顔を掌で拭い、髪に指を突っ込んで水滴を飛ばす。肩や背に飛沫を浴び、その冷たさにびくりとした。部屋の温度は思ったよりもずっと低い。怜のシャワー程度では暖まらなかったらしい。
シャワー室を出ると、バスケットから怜の衣類が消え、かわりにバスタオルとグレイのスウェットに似た上下がきちんとたたまれておさまっていた。これを着ろというのか。怜はとりあえずタオルで身体を拭く。洗濯の残り香が微かにした。いやな匂いではなかった。無地で無愛想な下着をつけ、スウェットに腕を通した。サイズは零の身体にぴったりか、少々大きい。誰かの持ち物というより、以前通っていた病院で見た療養服に似ていた。どちらにしろ濡れていないのはずいぶんと気持ちが違う。シャワー室を出ようとすると、ご丁寧にスリッパまで用意してあった。これではまるで入院してしまったようではないか。怜は苦笑を口許に浮かべ、廊下に出る。
廊下の真ん中より少し左寄りをずっと、ぽつりぽつり水滴が続いていた。自分の身体から垂れたのか、それとも自分の衣服を運んでいった誰かが垂らしていったのか。森の道の目印をたどるように、怜はその水滴のサインをひとつひとつたどっていく。廊下に並ぶドアはやはりみな閉められ、中の様子は分からない。物音ひとつ聞こえないのに、しかし確かに人の気配だけは伝わった。怜はアンテナを伸ばし、住人たちの声を聞き取ろうとするのだが、感じられる気配のほかは、何もキャッチできなかった。
談話室にさしかかる。ハードカバーを手に、テーブルに片肘を突いた彼は、まだそこにいた。チェス盤を挟んで対戦する彼らは見覚えがある。窓辺を向き、じっと動かない白髪。老婦人だろうか。その背中はひどく寂しげで、遠かった。
「白石さん」
呼ばれ、振り向くと、鳴海だった。ぴっちり折り目のついた白いブラウスに、紺のプリーツスカートをはいたいでたちは、ずいぶんと落着いた、大人びた印象を漂わせている。黒い髪がしっとりと濡れていた。肌は白く、化粧気はないのにきめが細かかった。いったいこの子はいくつなのだろう。さっきの取り乱した姿とは、まるで別人だ。
「白石さん」
怜は何も言わず、鳴海の長い睫を見ていた。鳴海は怜の視線を避けて、すっと目を伏せる。
「落着きましたか」
低く、小さく、呟くように怜は言う。変なセリフだと思いながら。自分は彼女の担当医ではない。
「服、いま乾かしてますから」
鳴海の肩越しに、部屋から出てくる真琴の姿が見えた。ちらりとこちらに気づき、軽く会釈をよこしたが、怜は視線で応えるだけにした。
「ありがとう」
「わたしのせいですから」
この子の声には、抑揚がない。友人が持っていた音叉の音のようだ。
「座りませんか。立っていても、具合が悪い」
怜はかたわらのテーブルを示す。鳴海は怜に目を合わせようとしない。
「許してくれますか?」
鳴海は呟く。声ではなく、呼気そのものが言葉のようだ。
「許すって、何を」
「わたしのことをです」
「さっきのことですか」
鳴海は小さな子どものように、うなずいた。肩越しに見える真琴はまだこちらを向いている。
「どうして」
声が掠れた。
「どうして、あんな?」
怜が訊くと鳴海は顔を上げた。表情はなかった。そうか、この子はほとんど瞬きをしない。
「自分でも、よくわからない。あなたと話しをしていて、芹沢さんと、子どもたちの歌を聴いて、外は、雨で、暗くて、歌が……。芹沢さん、笑っていた。白石さんも、笑っていた」
身長がほとんど変わらないから、鳴海の目はまっすぐに怜の目を向いている。ガラスでできた高価なレンズのように、曇りのないきれいな目だ。
「わたし、消えてしまいたかった」
「ええ?」
怜が訝ると、鳴海はふたたび目を伏せた。
「ごめんなさい、白石さんは、優しい」
「僕が?」
それには応えず、鳴海は怜をまっすぐに、射るように見つめた。茶色というより、紺色に近いほど、濃く澄んだ、瞳。
「あとで芹沢さんに言ってください。あなたの服を乾かしてくれたのは、あの人ですから」
鳴海は唐突に顔を怜からそむけ、踵をくるりと返して去っていった。ふわりと風を起こして。その風はわずかだけれど、水の匂いがした。潮の匂いではない、真水の透明な匂い。怜は呼び止めることをせず、ただ鳴海の後ろ姿を見送った。真琴が彼女に何か声をかけたが、鳴海はそれを無視したように歩き、いくつか向こうのドアに、消えた。窓辺の椅子から老婦人がこちらを向き、悲しみと喜びが同居したような、複雑な表情を怜に送っていた。
十七、日誌?