夏の扉
鳴海は怜を振り返らず、黙って立ち上がり、そして黙って歩き出した。左膝の傷からは血が流れていた。それをかばうようにして、内側のドアを開け、平穏すぎる<施設>に。びしょ濡れのふたりに気づいた受付の女の子が、目を見開いてこちらに駆けてくる。鳴海は女の子に向こうともせず、足を引きずり階段を上がっていった。受付の子は鳴海に無視され、もうひとりの濡れネズミ、怜のもとへと不思議な生き物でも見るような顔つきで駆けよってきた。
十五、日誌?
全身から湯気が上がっているような気がしていた。口の中がかすかに塩っぱい。沸き立つ白い壁。海が細かな粒子になり、風に乗って押し寄せていた。それは悪夢の光景を思わせた。息がまだ上がっていて、呼吸を意識して整える。横面を雨粒で叩かれ、感触はまだ残っている。前髪から滴が垂れ、床を濡らした。ジャケットに入れておいた煙草は大半が湿気を含んで、怜はその中から乾いた一本を取り出しくわえて火を点けた。ライターは無事だった。だが、せっかく喫う煙草も旨くはない。何が起きたのか、まだ分からなかった。
「白石さん」
受付の女の子がタオルを差し出していた。怜は何も言わずに受け取り、煙草を灰皿に置いて、乱暴に髪を拭う。
待合室いっぱいに雨音が響いていた。建物の部屋という部屋がシャワールームにでも化け、そのすべてで誰かが全開でシャワーを浴びているようだ。やかましい。首にタオルをひっかけ、怜は煙草を喫う。
鳴海はあれきり二階に上がったまま降りてはこない。膝の傷の治療をしているのか、それとも本当にシャワーでも浴びにいったか。
怜はきっちり根元まで煙草を灰にし、揉み消した。最後の煙を吐き出すと、舌にはヤニの臭いがこびりついていた。喉が渇く。徐々に身体が冷えてきたのか、室温がぐんと下がったように感じた。シャツはたっぷり雨を含み、ビニール製のダイビングスーツのようにごわごわと気持ちが悪い。これではほんとうに帰れない。怜は椅子の背に深くもたれた。濡れたシャツが背中に張りつく。冷たい。
雨はまだ盛大に窓を叩きつづけている。これはもう地上の建物というより、揺れていないだけで、時化の海を航行する船に乗っているのと同じだ。海まで一キロと少し。もうここは波打ち際だ。この辺一帯が捨てられた理由が分かる。
「白石さん」
受付の女の子が怜を呼ぶ。上体を捻じって彼女を向いた。受付カウンターから身を乗り出して、こちらをうかがっている。
「何ですか」
首のタオルで顔を拭った。潮を浴びたせいか、べとべとしている。
「二階に上がってください。シャワーが使えますから」
怜の身体は小刻みに震えはじめていた。帰るに帰れない、そしてここでも居場所がない。不意に、鳴海ではなくあのショートヘアの女の子……明日香といったか……の顔がさっと浮かんだ。
「いいんですか」
「はい?」
受付の女の子はまだ身を乗り出したままだ。怜の返事をずっと待っていたらしい。やはりこの子もおかしい。
「シャワーです。僕みたいな部外者が使ってもかまわないんですか」
「部外者って、白石さんは違います」
怜の言葉に、彼女はいくらか気分を害したらしい。眉間にしわが寄った。
「使ってもいいんですか」
「二階に行ってください。いまお湯の温度を上げてますから」
彼女はそれだけ言うと、カウンターに引っ込んだ。
怜はそれでもすぐには立ち上がらなかった。背中から震えは全身に伝播していたけれど、すぐに立ち上がる気にならなかった。窓に目を向けると、待っていたかのような閃光。続いて雷鳴。調査員時代にもたびたび遭遇した、春の嵐だ。石狩湾に突如現われる低気圧。海はもう、優しくはなかった。そう、自然が優しいなんて、とんでもない勘違いだ。
「白石さん」
声が彼を呼んでも、怜は振り返らなかった。おかしな気分だ。なぜ自分は不機嫌なんだ? 支離滅裂だ。
「白石さん」
怜は声を無視した。足音が近づく。受付の子が出て来てしまったか。
「白石さん」
すぐ背後で声は呼ぶ。ようやく怜は振り返る。そこに立っているのは、受付の女の子ではなかった。オルガンを弾いていた、上目遣いの子だ。芹沢、真琴といったか。
「上に行きましょう」
見下ろされているのに、彼女は上目遣いだった。だからおどおどとした、何かに怯えているような表情に見える。
「風邪を引きます」
真琴の向こう、エントランスから階段へ、数人の子どもたちが歩いている。たがいに声をかけあうことも、てんでに走り回ったりもせず、整然と階段を上っていく。ひとり、ふたり、三人、四人、五人。
「白石さん」
「綾瀬さんだっけ」
真琴を見上げ、怜の声は震えた。
「わたしは芹沢です」
「いや、綾瀬さん。あの人は変わっているよ」
「鳴海さんですか」
真琴はびくりと身体を引いた。怜はわざとぞんざいに振る舞った。
「分かりました、行きましょう。ほんとうに凍えそうだ。ここは寒い」
席を立つ。怜が座っていた部分にくっきりと雨が染みていた。
「鳴海さんは、悪い人じゃないです」
真琴の横を過ぎようとして、ぽつりと彼女は言った。
「僕は悪い人だなんて言ってないです。変わっている人だと言っただけです」
「……あなたも、変わっています」
真琴は怜が座っていた椅子を向いたまま。だから互いに背中合わせのような格好になった。
「僕が?」
「いえ」
「何です」
「いえ」
怜は震える声を抑えながら、振り向く。
「わかりました、行きましょう」
ふと視線を感じる。受付の女の子がじっとこちらを向いていた。
「タオル、ありがとう。……借ります」
小さく頭を下げると、彼女はディスプレイに視線を移し、キーボードの上に十指を躍らせた。もういちど顔を拭う。べたべたはまだとれない。
十六、日誌?
待合室がさしずめ嵐の海を行く船だとすれば、二階はその海を低空で飛ぶ飛行機だ。風がまともに当たり、そのたび部屋がぎしりと軋むようだ。コンクリート製のはずなのに、嵐の前にひどく頼りない。窓を叩く雨も、一階よりも心なしか激しい。ターボプロップ機がエプロンを離れていくときのような、高周波まじりの風切音が聞こえる。
談話室にはぱらぱらと人影。今日は室内がえらく明るい。ガラスに部屋が、人が反射してずいぶん奥行きがあるようにも見える。外は、それくらいに暗い。怜は上がってきた階段を振り返る。遅れてついて来た真琴と目が合った。見上げる目は、不思議に上目遣いに見えなかった。この子も変わっている。
明日香も鳴海も談話室にはいなかった。あの老婦人の姿も見えなかった。窓辺には、四六版のハードカバーを手にした青年がいた。時折瞬く鯔妻にも、彼は動じなかった。だから濡れネズミの怜が二階に上がって来たことにも、彼は反応を示さない。
「浴室ってどこです?」
怜は二階に上がりきった真琴に訊いた。
「こっちの、突き当たりを右に行ったところです。すぐわかります」
真琴は談話室の向かって右の廊下を示した。左右に扉が並ぶが、やはり病院という雰囲気ではない。
「借ります」
「どうぞ」