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夏の扉

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   一、<施設>

 長い休暇がはじまってしまった。
 薄く砂の積もったプラットホームに降り立ち空を仰ぐと、部屋を出たときとおなじ、春の霞が漂っていた。そして鼻腔に抜けるのは潮の匂いだ。海が近い。軌道にはまだ電車の余韻が残っている。ただっ広い荒れ地は一面のタンポポ畑だった。ひびだらけのアスファルト、朽ち掛けたプラットホーム。彼は自分が日常を逸脱していることをあらためて感じた。どうしてこんなところにいるんだろう。
 街をふりかえる。まだ電車のパンタグラフが揺らめいていた。一直線、街灯と電柱が並ぶ港湾道路が地平に向かって伸びている。人の世界が遠ざかっていくようで、そよぐ春風とは裏腹に、なにやらうち捨てられたかのような寂しさが去来する。そうだ、長い休暇が始まってしまった。
 無意識のうちにポケットの鍵を指先で触れていた。それがたったひとつ、昨日までの日常と自分とをつなぐ鍵であるかのように。歩み出さなければならないのに、砂まじりのアスファルトに靴が同化してしまったかのようだ。最初の一歩が踏み出せない。
 朝、ドアに鍵をかけ、よく整備された歩道を地下鉄の駅に向かう。自動改札を抜けて電車到着のアナウンスを聴く。いつもどおりのスタートだ。車輌の軋みや甲高いモーターの音すら、一日の始まりに心地よい音のはずだった。いや、今朝もそう感じていた。しかしいつもの駅を乗り越して、終点からLRT(ライト・レール・トランジット)に乗り換えたあたりから、彼は腕時計をのぞくのをやめた。もう時間を気にする必要もなかった。郊外のターミナルで乗り換えたLRT、電車は光の中を進んだ。次第に車の数も人通りも、車窓からは消えていく。等間隔で並ぶ電柱と街灯、そして草原とタンポポ畑。遠く、見慣れた山並みが、車内で彼と日常をつなぐランドスケープだった。気づけば乗客は彼ひとり。道端の樹々はうっすら芽吹いて萌黄色。運転士ごしに見える地平は、霞のかかった空に溶け込んでいた。やがて到着した停留所は終点だった。以前はもう少し先まで路線は通じていたが、伸びる錆色のレールとひびだらけのアスファルトは、徐々に草に覆われつつあるようだ。電子音のような気笛を残して電車は彼を一人にした。
 鳥が鳴いていた。トビだろうか。
 周りからは生活の匂いがまったくしなかった。ぽつりぽつりと建つ家々にもはや住人はいない。捨てられて久しい地域なのだ。彼はジャケットの内ポケットから紹介状を取りだした。添えられた簡単な地図を一瞥したが、思わず苦笑がもれた。痩せた樹々とタンポポばかりが住人のこの場所で、道に迷うとも思えなかった。
 ようやく第一歩。プラットホームを離れ、もういちど深く息を吸う。潮の匂いは電車を降りたときよりも感じなかった。しかしすぐそこまで迫ってきているはずの海が遠ざかったわけではない。自分がゆっくりと日常を離れているからなのだ。
 彼、白石怜は小さく鼻を鳴らし、穏やかな潮風を受けながらもうひとつの、これからの日常を目指し歩きだした。

 その建物は、ただ<施設>と呼ばれている。もちろん正式な、長ったらしい名称は用意されているが、誰もがただ<施設>と簡単な呼称で、白壁の建物のことを呼んでいた。そのあたりにはもはや人家はなく、建物といえば<施設>以外には見られなかったからだ。しかし建物はもうずっと以前から<施設>と呼ばれつづけていた。
 <施設>がここに建設された頃は、十五分も歩けばコンビニエンス・ストアやスーパーマーケットにこと欠かなかった。今ではてんでに自己主張をしている草原もその頃は畑だったし、<施設>の窓からは市街地が見渡せた。だが市街地の人間と<施設>は、けっして良好な関係であったわけではなかった。誰もが意図的な無関心を決め込んでいた風がある。それは建物が正式名称で呼ばれず、単に<施設>と呼称されつづけてきたことからも明白だった。そうしていつしか潮の匂いが強くなり、畑が草原に変貌し、強制執行によって人家から住人が消えたあとも、<施設>は残った。周囲の怯えや蔑みに似た視線は、潮の匂いと草っ原の緑にとってかわった。
 電停を離れて十分あまり、防風林沿いの一本道を途中、揚水機場の角を右に曲がると、<施設>の白壁が目に飛び込んできた。想像していた様子とはずいぶん違う。清潔で小ぢんまりとした外観は、新興住宅街のはずれに建つ小学校といった趣だ。樹木が効果的に配置され、人工的な外観を穏やかにさり気なく隠している。怜は現われたもうひとつの日常に、内心胸をなで下ろしていた。自分が「そういう場所」のお世話になるのだと、数日間憂鬱だったが、ここならばよい、そんな気分だった。紹介状を再び取りだし、エントランスから受付に。中はおさえぎみの照明が心地よかった。受付の女の子は自然な笑みをよこしてくれた。こうして見る白衣は、軽い風邪でもひいて訪れた医院で、薬を処方してもらったときに感ずる安堵に似た感情を、そっと思い起こさせた。そちらにかけてお待ちください。
 <施設>の中は思いのほか静かだった。廊下の向こうからオルガンの音に合わせて、子どもたち数人が合唱しているような歌声が流れていた。十畳ほどの待合室からは、中庭だろうか、手入れの行き届いた芝生が見えた。春の日差しを反射して、室内はぼんやりと緑色に染まっていた。殺伐さも慌ただしさもここにはなかった。怜はふと、諦観に似た感情がここに流れているような気がしたが、それは自分の状態ゆえの勘違いではないのかと、みずからを叱った。待合室をぐるりと眺め、隅に灰皿がポツリと置いてあるのに目が止まった。珍しい!
 怜はそれまで座っていた席を離れ、脚の細い灰皿の前に腰を下ろす。喫煙が犯罪行為に等しく叫ばれて、もうどれくらいの時間がたつのだろうか。怜は品物に狙いをさだめ、店員の動きに目を光らせる万引き常習犯のような心境で、受付をちらりと見た。意識しないのに、左手が煙草をおさめたポケットを押さえていた。受付の女の子はキーボードを叩いてこちらには気を向けてはいない。一瞬自分の姿を想像して苦笑が浮かんだ。深く椅子に座りなおして、ポケットから煙草を取りだした。それでも火を付けるのには躊躇した。左手に煙草を、右手にライターを持ったまま。
「喫わないんですか」
 背後から声をかけられ、怜は店員に呼び止められた万引き犯のごとく、びくりと肩を震わせた。
「禁煙じゃないですから」
 振り返ると、はっとするほど白い肌の少女が立っていた。いや、少女というには少し年齢が高いだろうか。透明な声にそぐわず、感情に乏しい顔がほっそりとした首の上にあった。なかなか上背があるようだ。
「ああ、どうも」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介